11/8の「聖書のいづみ」は、サムエル記上3章1-5節を学びました。この箇所の鍵となるのは4節です。以下、語順を意識した直訳調の私訳を紹介します。
「そしてヤハウェは呼びかけた、サムエルに向かって。そして彼は言った。『見よ、私は(ここに)』」。
「ヤハウェ」は旧約聖書の神の固有名であり、新共同訳聖書では「主」と訳されています。下線を引いた部分には、底本(レニングラード写本。紀元後11世紀)とは別の写本による異読があります。
死海写本(4QSama、紀元前1世紀)は、下線部を「サムエル」とします。「に向かって」という前置詞が無いのです。その本文の立場は、次のような意味になります。「そしてヤハウェは呼びかけた。『サムエルよ』。そして彼は言った。『見よ、私は(ここに)』」。
ギリシャ語訳聖書(バチカン写本、紀元後4世紀)は、下線部を「サムエル、サムエル」とします。「そして主は呼びかけた。『サムエルよ、サムエルよ』。そして彼は言った。『見よ、私は(ここに)』」。
この本文の立場は、アブラハムとモーセにサムエルを似せようとしています(創世記22章11節、出エジプト記3章4節)。両者共に人生の重大な転機にあって、神に二回名前を呼ばれているからです。そして両者共に「はい」と答えています。ちなみに創世記・出エジプト記双方の箇所で、新共同訳聖書が「はい」と訳している言葉は、「見よ、私は(ここに)」と同じ単語です。アブラハムとモーセは、旧約聖書の中でも屈指の偉人です。サムエルが、エリヤを差し置いてアブラハム・モーセと並ぶことができるかどうかが、写本を伝承した人々の関心事です。
時系列的に言っても、おそらく元来の本文は死海写本の伝えるものだったのでしょう。それに対して、レニングラード写本のように、アブラハム・モーセに似せない方向でサムエルを格下げするために前置詞を加える立場がありました。現在のユダヤ教正統の伝承本文です。それとは逆に、アブラハム・モーセに比肩しうるサムエル像を作ろうとする立場もありました。キリスト教徒が用いたギリシャ語訳聖書の本文です。
読者はそれぞれの本文を伝承した信仰共同体を尊重しつつ、自分はサムエルをどう捉えるのかを考えなくてはいけません。過渡期にあって、王制導入に反対した最後の士師サムエル、世襲ではない祭司サムエル、王を任命した最初の預言者サムエル、子育てに悩んだ父親サムエル。位置づけに頭を悩ませましょう。 JK