11/22の「聖書のいづみ」は、サムエル記上3章6-9節を学びました。ヤハウェという固有名を持つ神が、祭司エリの従者となったサムエルの名前を呼ぶ場面です。新共同訳聖書はギリシャ語訳以来の伝統に従って「ヤハウェ」を「主」と訳します。文語訳は「ヱホバ」でした。この場面では固有名の方が良いでしょう。
ヤハウェは、直接サムエルの名前を三度呼んだと解します。「サムエルよ」(4・6・8節。11/8本欄も参照)。それに呼応して、祭司エリはサムエルに「ヤハウェよ」と呼びかけ返すように指示をしています(9節)。固有の名前を呼びつ呼ばれる関係に、親しい交わりの内実が示されます。
驚くべきことは、シロの神殿に住み込み祭司としての修行を積んで、さまざまな儀式の奉仕をしていたであろうサムエルが、この時点で「ヤハウェを未だ知らなかった」とされていることです(7節)。「知る」(ヘブライ語動詞ヤダア)は、広範な意味を含みます。人格を持つ相手を対象とする場合、「人格的に親しい交わりを持つ」という意味となります。宗教儀式への従事は聖書の神との交わりを担保しません。むしろ、互いの名前を呼びかけ合う霊的交わりによって、わたしたちは神を知るのです。それは祈りや賛美において、あるいは「神の言葉が示されること」(7節)によってなされることです。それが霊的礼拝です。
二度目にサムエルがエリのもとに来た時まで、エリはサムエルがヤハウェに直接呼ばれていることに気づきませんでした。単純に「何かの間違えだろうから、寝床に戻れ(動詞シューブ)」と言っています(5・6節)。
しかし、三度目にサムエルが来た時に、エリは洞察しました。ヤハウェがサムエルを指名し呼びかけていること、それはおそらく何らかの使命を与えるためであることを見抜きます。そして、自分の従者(ナアル)であるサムエルに、彼のためになる適切な助言をします。「行け(動詞ハラク)。次にヤハウェが呼びかける時に、『あなたが語ってください、ヤハウェよ。なぜならあなたの僕(エベド)は聴いていますから』と言え」(9節)。師匠・祭司としての年季が感じられる助言です。
エリは、単純に「戻れ」と言わず、三度目だけは「行け」と言います。この言葉は、ヤハウェがアブラハムに命じた言葉と共鳴しています(創世記12章1節)。神の召しに基づいて、新しい歩みを始めるための命令、未来へと押し出す言葉です。言い換えればエリは、サムエルが自分の従者からヤハウェの僕となることを、予感したのでした。キリストを知ることの絶大な価値のゆえに、今までの誇りを糞土のようにして捨てたパウロと、ヤハウェの僕サムエルが重なります。JK