イエス・キリストの十字架と復活は、キリスト教信仰の中心です。イエスという人物が十字架という方法で処刑された出来事を、どのようにとらえるのかが、キリスト信仰の有無と関わります。一人の死刑囚の死と考えるのか、それとも世界の救いの出来事と信じるのか。イエスを鬼籍に入ったユダヤ人と考えるのか、それとも今も生きているわたしの救い主(キリスト)と信じるのか。人の子の一人として考えるのか、それとも唯一無比の神の子と信じるのか。キリスト教という宗教は、煎じ詰めれば結局、イエスをキリストと信じるという信仰です。
あらゆる信仰には「論理の飛躍」があります。十字架と復活もその一つです。反権力の闘士であったイエスが官憲によって逮捕され冤罪をかぶせられ無罪のまま処刑されることまでは、わたしたちの理解の枠内です。しかし、「十字架刑死が全世界の身代わりのための犠牲だった」とか、「このわたしの罪を贖うための贖罪死だった」とかと言われると、あまりの論理の飛躍についていけなくなります。
また、埋葬されたイエスの墓が空になっていたからといって、イエスが復活したと考えるのも論理の飛躍です。遺体が見つからない理由は、他にもありそうだからです。さらに、仮にイエスが何らかの理由で蘇生したとしても、だからと言って「イエスは永遠の命を持つ神の子である」とか、「今も見えない形でわたしと共にいる神である」ということを立証したことにはなりません。ここにも論理の飛躍があります。
こう考えていくと、イースターラビットはキリスト信仰のもつ「論理の飛躍」の象徴のように思えてくるから不思議です。兎のように軽やかに跳躍できるものでなければ神の国に入ることはできないのかもしれません。
運動会の練習を見ていても、跳び箱を軽やかに飛び越える子どももいれば、踏み切り板を前に怖気づく子どももいます。徐々に跳べるようになる子どももいれば、ある時から突然跳べるようになる子どももいます。信仰も、跳び箱に似ているのかもしれません。論理という大人の理屈を持てば持つほど、跳び箱の段が増えて高くなっていくような気がします。
思い切りよく踏み切って跳び箱を飛び越えた爽快感が、「イエスがキリストだ」と信じてバプテスマを受けた後の爽快感と似ているように思えます。
信仰は人生を豊かにします。論理の飛躍という、ユーモラスな経験を内に秘めている人は、しなやかにしぶとく生きることができるからです。特に復活信仰は、自分の人生に決してあきらめない希望を与え続けます。 JK