1月9日の「聖書のいづみ」ではサムエル記上9章26-27節を学びました。老預言者サムエルが青年サウルを、イスラエル初の王になるように説得する場面の続きです。サムエルは夜遅くまで、サウルと屋上で話し込んでいたと推測します。26節においては、サウルの従者が物語から忘れ去られています(22節参照)。
ところが27節で再び、今まで無視されていた従者が言及されます。「従者に、先に行くように命じなさい」と、サムエルがサウルに言うのです。なんと従者はサウルに付き従っていたのでした。
原則的に従者はサウルに常に随行しなくてはなりません。サウルの父親キシュに命じられて、サウルが選んだ付き人だからです(3節)。しかし、例外的に従者はところどころ自分の存在を消します。そこには法則性があります。サウルとサムエルの対話の時にだけ従者は姿を消し、一体一の面談を演出するのです(25節)。『新共同訳』は、「従者は先に行った」と記しています(27節)。これはヘブライ語の底本レニングラード写本に従った翻訳です。この立場は、サウルとサムエルの関係を重視しています。
その一方で、『聖書協会共同訳』は「従者は先に行った」を削除します。そして削除の理由を欄外注において、「ギリシャ語訳による」と明記します。厳密にはギリシャ語訳だけではなく、ラテン語訳・シリア語訳も削除しています。このように異なる読みを取るヘブライ語写本や古代訳を比較して、最古・最良と推測される本文を探る学問的営みを「本文批評」と呼びます。聖書翻訳には、翻訳以前の本文批評(訳すべき本文の確定)が必須です。
ギリシャ語訳等の立場は、従者がサムエルとサウルの対談に陪席していた可能性を残します。なぜなら人払いを望むサムエルの要求にサウルが応じないことも、あるいは、サウルが要求に応じたとしても従者が従わないこともありうるからです。それは遡って、前日の「屋上の対話」においても、従者が陪席していた可能性にまで広げられます。この立場は、サウルと従者の関係を密接にさせます。それは今までの物語における従者のサウルに対する主導的地位とも合致します(4-10節)。
異なる本文は聖書を正典と信じる共同体の多様性を証しています。それらの諸立場を尊重し合う聖書研究の方法が求められます。
ちょうど9章の終わりという区切りで、サムエル記上の学びについては一時お休みいたします。次週からは、新約聖書のフィリピの信徒への手紙を少しずつ学ぶ予定です。JK