2019/03/06今週の一言

3月6日の聖書のいづみは、フィリピの信徒への手紙1章15-17節を学びました。以下は、ギリシャ語原文の語順を意識した直訳調の私訳です。

 

15 実際、ある人たちは妬みと争いを通しても、またある人たちは善意を通しても、キリストを宣教している。

16 実際、愛による者たちは、私が福音の弁明へと横たえられていると知りながら、

17 一方で、利己心による者たちは、キリストを宣べ伝えている、純真にではなく、私の鎖に患難を起こすことを思いながら。

 

「妬み」・「争い」(15節)、「利己心」(17節)は、パウロの他の手紙でも悪徳として挙げられています(ガラテヤの信徒への手紙5章20-21節等)。これらの悪徳は、「善意」(15節)、「愛」(16節)の反意語です。

善意を通してキリストを宣教することは、ある意味で当然ですが、妬みと争いを通してキリストを宣教するということは、どのような事態なのでしょうか。そのような人々は「利己心による者たち」とも言われています。おそらく、パウロに対して嫉妬に駆られた競合心をもって、「自分の子分」を増やすために伝道活動をしていた人がいたということでしょう。教会で分派の争いは醜いものです。

これらの情報は、軟禁されているパウロにとって「患難」となります。新たな「患難を起こす」ことというよりは、拘束状態の上に「患難を加える」(異読による)ことです。いささか大げさな言い方に聞こえます。ただし心労というものは数値化できない、とても主観的なものです。つまり本人が患難と思うならば、それは患難なのです。

「福音の弁明へと」は、「福音の弁明のために」とも解せます。前者は、「現在の拘留を経、将来の裁判を通してパウロはキリストの福音を宣教する」という立場です。後者は、「過去の伝道活動の結果としてパウロは現在拘留されている」という立場です。私訳は、「弁明」という法廷用語の使用から、前者を採ります。それはパウロが皇帝に対してあえて上告した姿勢とも合致します。裁判の場で、口頭弁論を通してもキリストを宣教できるとパウロは考えています。

福音宣教は、良い知らせを告げる伝令の仕事です。福音は忠実に伝言されなくてはなりません。不信心な者を義とする神の信実こそ、良い知らせの中身です。それと同時に、福音は弁明されるべきもの、解釈され説明されるべきものです。聞く相手にとって良い知らせと理解される形で、解き明かさなくてはいけません。JK