2019/04/24今週の一言

4/24の「聖書のいづみ」ではフィリピの信徒への手紙1章22-24節を学びました。直訳風私訳は以下のとおりです。

 

22 さて、もし肉の中に生きるならば、これはわたしにとって働きの実。そして何をわたしが選ぶだろうかを、わたしは知らない。

23 つまり、わたしはその二つによって押しつけられている。去ることそしてキリストと共に居ることへの願望を持っている。〔それは〕はるかにずっとより良い。

24 だが、肉に留まることはあなたたちのためにより必要。

 

 軟禁状態で裁判を受けているパウロが、この箇所で弱音を吐いています。直前の一文で、「生きることはキリスト、死ぬことは利益」(21節)と言い切ったにもかかわらず、生きるべきか死ぬべきか迷い、ついには死んだ方がましとさえ言うのです(23節)。パウロにしては二つの意味で非常に珍しい発言だと思います。

 パウロは、全般に気の強い人です。これまでも迫害をもものともせずに宣教をし、死刑判決を恐れないで皇帝に上告をしています。教会内部でも主流派との論戦を精力的に行っています。気の強いパウロが死を望む。珍しい弱音です。

 二つ目の珍しいこと。パウロは自分の生きている間に、キリストの再臨が起こることを確信し、その希望を公言していました。そのようなパウロが自らの死を語ることや、死の結果「キリストと共に居ること」を願うことは、極めて珍しいことです。彼はいつも生きながらキリストと出会うことを教理の一部として布教していたのですから。「去ること」(23節)は、死の婉曲表現です。この言葉使いにもパウロの逡巡が見て取れます。

 それほどに軟禁拘留状態は、老パウロにとって過酷な状況だったのでしょう。こういった弱気の言葉から、フィリピの信徒への手紙の執筆時期が、パウロの最晩年、すなわちローマで処刑される前と推測されるのです。

 逡巡しながらもパウロが「やっぱり生き続けなければ」と思い直すきっかけは、フィリピ教会がパウロを必要としているのではないかという問いでした(24節)。フィリピ教会はパウロの「働きの実」です(22節)。もしも無罪判決・解放をかちとることができるなら、さらにその実は豊かになることでしょう。

 ただ生きるということが使命となることがあります。 JK