5/22の「聖書のいづみ」ではフィリピの信徒への手紙1章29-30節を学びました。直訳風私訳は以下のとおりです。
29 というのも、キリストのためのことがあなたたちに恵まれたからだ、彼を信じるということだけではなく、むしろ彼のために苦しむことをも、
30 同じ競争を持ちながら、そしてそれ(競争)をあなたたちは私のうちに見たし、今あなたたちは私について聞いているのだが。
29節と30節は、長い一文です。日本語の語順ならば、全てを後ろから翻訳するか、あるいは、29節で区切って二文を作る方がわかりやすいと思います。
構文上、神から賜った「キリストのためのこと/キリストゆえのこと」とは、キリストを信じるということとキリストのために苦しむことです。わたしたちのキリストへの信仰(永遠の命)は、キリストの神への信頼を通して、無条件に恵みとして与えられたものです。それは、十字架につけられたままのイエスを救い主と告白することなので、キリストのために苦難を受けることも含みます。イエスの死に方は、信徒の生き方を規定します。
信仰と苦難の関係。単純な因果関係を持ち込むと薄っぺらな人生訓になりそうなテーマです。しかし信仰のために逮捕され、裁判にかけられて軟禁・拘留中のパウロが苦難を語るときに説得力を持ちます。
十字架のイエスに従う自らの姿を、パウロはスポーツ選手に喩えています(フィリピ3章14節、1コリント9章24-27節も参照)。スポーツは、「やりがいのある苦労」です。練習も含めスポーツをしている時、肉体も精神も辛い思いをします。しかし、終わった後には達成感や爽快感が与えられます。競う相手は自分自身です。
フィリピ教会の信徒は、アスリートのように信仰生活に打ち込むパウロの姿をかつて実際に見ました。そして今は離れ離れになっても変わらぬ姿を聞いているのです。パウロも、同じ心持ちでフィリピの信徒たち一人ひとりが人生の道を走っていることを信じています。
トレーニングジムのランニングマシンはすべて同じ方向を向いています。しかし一人ひとりの速度は異なります。信徒はみなそれぞれの人生の十字架を背負いながら世の終わりに向き合ってランニングマシンの上を走っています。キリストは全員の専属トレーナーです。隣人同士の競い合いはありません。むしろ、克己心や向上心が、信仰生活というスポーツの肝です。JK