5/29の「聖書のいづみ」ではフィリピの信徒への手紙2章1-2節を学びました。直訳風私訳は以下のとおりです。
1 それだから、もしも何ほどかキリストにおける呼びかけがあるのなら、もしも何ほどか愛の慰めがあるのなら、もしも何ほどか霊の交わりがあるのなら、もしも何ほどか感情や共感があるのなら、
2 あなたたちはわたしの喜びを満たせ。その結果、あなたたちは同じことを考えるだろう、同じ愛を持ちながら、共有された精神で、一つのことを考えながら、
「もしも何ほどか・・・があるのなら」という表現が、4回繰り返されています。ここにくどい程の強調があります。ほんの少しでも「キリストにおける呼びかけ(召し)」や「愛の慰め」、「霊の交わり」、「感情や共感」があれば、十分にパウロの喜びを満たすことができるということになります。
ではパウロの喜びとは何でしょうか。1章18節に、フィリピ教会の宣教活動の進展(福音の前進)について、パウロが喜んでいると記されています。フィリピのキリスト者たちがイエス・キリストを宣べ伝えている様子を聞くことが、獄中のパウロの喜びです。ほんの少しでも、神に必要とされているという思い・隣人たちへの共感があるならば、わたしたちには福音の伝道ができるのです。
個々人がキリストを宣べ伝える結果として、わたしたちは一つのことを考えることができるようになります。フィリピの教会内部にも、指導者同士若干の競合や葛藤があったように思えます(4章2-3節)。教会内の一致がきしむ時わたしたちはどのように改善すれば良いのでしょうか。
「教理は対立を生み、奉仕は一致を生む」とは、エキュメニカル運動(「世界教会運動」、「教会一致運動」等と訳される)から生まれた格言のようなスローガンです。キリスト教内部の教派間協力や他宗教間の協力、さらには一つの教会内部においてさえも当てはまる至言だと思います。個人の信念・信条・思想(教理)は、互いにすり合わせたり、合意を形成したりしにくいものです。本人にとっての真理だからです。むしろ違いばかりが強調されやすいのではないでしょうか。
むしろ共通の活動を共にし、一緒に汗をかく時に、どんなに考え方の異なる人々ともわたしたちは協力関係を築くことができます。パウロが望んでいたことは、各人が福音宣教に励むことです。そうすれば角突き合わせて向き合う個々人も、自然に同じ方向へと向き直され、同じ軛に繋がれ、汗をかくからです。JK