6/19の聖書のいづみでは、フィリピの信徒への手紙2章6-8節を学びました。以下に直訳風私訳を記します。
6 彼は神の形で存在しつつ、神と等しいことを獲得物と考えなかった。
7 むしろ彼自身を彼は空しくした。奴隷の形を取りつつ、人間たちの似姿に成りつつ、そして人間としての外観で見出され、
8 彼自身を彼は低くした。死まで従順に成りつつ、しかも十字架の死〔まで〕。
2章6-11節は初代教会の礼拝で用いられた讃美歌の歌詞だったと言われます。反意語、類義語、同義語の多用に詩文としての性格が現れています。多くの学者は「キリスト讃歌」と呼びます。キリスト讃歌には、簡潔な表現でキリスト教教理が謳われています。今回はその前半です。
6節は、神とキリストが等しいということが言われています。キリストは神が最初に創った被造物なのではなく、キリストも神と同じく先に存在する創造主です(先在のキリスト論。箴言8章、ヨハネ1章も参照)。神=キリストは、三位一体論の萌芽ともなります。そのキリストは100%神であるという地位を、既得権のように考えませんでした。彼は自分を空しくしたのです(7節)。神が人間となったということを言い表しています。キリストは100%人となった神です。
キリスト讃歌には、人間の罪についての直接の言及はありません。キリストに集中しています。神の形であるキリストが奴隷の形となったと言うのです。「奴隷」は、イザヤ書53章を意識しています。人々の罪咎を代わりに背負った「苦難の僕(奴隷)」の詩です。直接ではなくても、罪の贖いは示唆されています。あるいはガリラヤ地方を巡り、苦しむ人々に仕えたナザレのイエスの生き方が示唆されています。
8節は、神がキリストに使命を与えて、天から地へと派遣したことを前提にしています。「従順」は「聞き従う」という意味を含んでいます。「十字架の死」がその使命です。それは自分を低くすることと言われます。社会的にも宗教的にも最も酷い仕方で殺される十字架刑は、地上で最も低い場です。最も高い神が、最も低い死刑囚となり、冤罪を被せられて虐殺される。これが「キリストの謙卑」です。キリストは「僕となった王」です。
聖書は人が神になることに反対しています。現人神をつくってはいけません。そうではなく、神が人となったということがわたしたちの信仰の中心です。このイエス・キリストに倣って、わたしたちも「低みに登る」ことが求められます。 JK