9/4の聖書のいづみでは、フィリピの信徒への手紙2章16-18節を学びました。以下に直訳風私訳を記します。
16 命の言葉を強く持ちながら。キリストの日に私のための誇りへとなるために。なぜなら私が走ったことも無駄ではなく、苦労したことも無駄ではなかったからだ。
17 むしろ、たとえあなたたちの信仰の犠牲と奉仕の上に私が注がれるとしても、私は喜ぶ。私はあなたたち全てと共に喜ぶ。
18 さて、それと同様のことをあなたたちも喜べ。そして私と共に喜べ。
パウロは信仰生活のことを「走ること」「苦労すること」にたとえます(ガラテヤ2章2節、Ⅰコリント15章10節参照)。教会に通い続けることは長距離走に似ていなくもありません。毎週の礼拝は、わたしたちにとって陸上トラックをぐるぐる回ることに似ています。それと同時に、信仰は長い人生の一部でもあるので、マラソンのように色々な風景を見ながら走ることに似ています。年を経ると聖書の読み方が変わるのは、人生の風景が変わっているからです。さらに、信仰には駅伝のように次世代に継承するという面もあります。
パウロは長距離走のような信仰生活が「無駄」になるかならないかについて敏感です(Ⅰテサロニケ3章5節参照)。どこにその分岐点があるのでしょうか。「共に喜ぶ」ということがらに鍵があります。つまり隣人がいるかどうか、互いに隣人になることができているかということです。言い換えると、隣人が自分の「誇り」となっているか、そして自分が隣人の「誇り」となっているかということでもあります(1章26節)。
こうした相互行為に鍵があると考えると、最も難解な部分も読み解けるかもしれません。「フィリピ教会の犠牲と奉仕の上にパウロが注がれる」(17節)という事態は、一体何を指すのでしょうか。用語法上、「注がれる」を「血が注がれる」、つまりパウロの殉教と断定することは困難です。この単語は「灌水祭」というギリシャ文化の祝祭で飲み物を掛け合うときに用いられます。パウロがフィリピの教会に仕え、フィリピの教会を祝福していること。それと同様にフィリピの教会もパウロに仕え、パウロを祝福していること。この双方の行為が象徴されていると解します。お互いは利他的な生を身につけたのです。
18節の命令文「喜べ」は、平叙文「喜ぶ」とも翻訳できます。まったく同じ形だからです。パウロはフィリピ教会が自分と同様に今喜んでいることを確信していたかもしれません。 JK