2019/10/16今週の一言

10/16の聖書のいづみでは、フィリピの信徒への手紙3章1-2節を学びました。以下にギリシャ語の語順を意識した直訳風私訳を記します。

1 あとは、私の兄弟たちよ、主にあってあなたたちは喜べ。同じ事々をあなたたちのために書くことは、私にとって実際怯むことではない。今やあなたたちにとって安全だ。

2 あなたたちは、かの犬たちを見よ。あなたたちは、かの悪い働き人を見よ。あなたたちは、かの「割礼」を見よ。

フィリピ書が元々一つの手紙であったのか、それとも二つ以上の手紙の合成であるのかについては議論があります。特に3章1節と2節に強い断絶を見て取る立場の学者は、合成説に傾きます(岩波訳聖書の青野太潮ら)。保守的な立場の学者や田川建三も合成説を採りません。今ある本文で意味が通るならば、そしてばらばらの手紙がそれぞれ発掘されていないならば、なるべく現状の本文の立場を尊重した方が良いと考えます。この論点は1節の翻訳に大きな影響を与えます。

合成説を採る人は、「3章1節までが一つの手紙だった、同2節から別の手紙が始まるのだ」と考えます。その論拠の一つが、「あとは」と訳した単語です。この単語は「最後に」とも訳せます。「最後に」と解すれば、3章1節までで完結している立場を補強できるのでしょう。パウロは「あとは」という言葉を、「兄弟たちよ」と結びつけて「追伸」という意味合いで口癖のように用います(Ⅰテサ4:1、Ⅱコリ13:11)。手紙において比較的長い追伸を書いてしまう場合もありえます。「最後に」と訳したとしても、そこからが長いということすらあるので、手紙の終わりとして不自然ではありません。

合成説を採る人は、3章2節の「犬」等と称される論敵の登場が今までの文脈を破っているということを論拠とします。しかし、関係良好とされるフィリピ教会にも論敵がいたであろうことは、1章28節「反対者たち」への言及によって推測されます。その人々はフィリピの教会員ではなく時々訪れるユダヤ主義キリスト教徒たちでしょう。だから「文脈を破っている」とまでは言えません。

いわゆる「割礼」と訳した単語は、「反対者たち」を揶揄するために編み出した、パウロの造語です。論敵は割礼がキリスト者になることの条件であると主張していたのでしょう。パウロはフィリピ教会員への報復を恐れて、反対者たちへの反論を怯んでいたのかもしれません。その恐れがなく、教会員の安全が確認されたので、ここでは強く論難しているのでしょう。 JK