11/20の聖書のいづみでは、フィリピの信徒への手紙3章7-8節前半を学びました。以下にギリシャ語の語順を意識した直訳風私訳を記します。
7 しかしながら、私にとって利得であり続けたこと全ては、キリストのゆえに私はこれらを損失とみなした。
8 しかしながら、まさに実際のところ、また、私の主のキリスト・イエスの知識が優越しているゆえに、私は全てのことを損失であるとみなしている――彼のゆえに私は全てを損したのだが――そして私は(それらを)屑とみなしている。
ギリシャ語には大きく三種類、過去の時制があります。すなわち過去の一点の動作を示すアオリスト(不定過去)という時制、過去から過去への継続した動作を示す未完了過去という時制、さらに過去に終了した動作の効果が今も続いている現在完了という時制です。
7節の「あり続けた」は未完了過去時制です。パウロにとって5-6節で挙げたベニヤミン部族のヘブライ人であることや、ファリサイ派であることは、経済的な意味で利得でした。彼はエルサレムに留学できるほど優秀な律法学者でした。高学歴・高収入が彼には約束されていました。
しかしその利得をパウロはキリストのゆえに損失とみなしたというのです。「みなした/評価した」は現在完了時制です。パウロがすべてを損失とみなしたのは、イエス・キリストに出会って、何日も閉じこもって、悩みをくぐり抜けて救われたその時のことでしょう。一度救いを経験した時の効果が、一生継続しています。8節に同じ単語が繰り返されますが、すべて現在時制です。
「キリスト・イエスの知識(グノーシス)」は、二つの翻訳可能性を持ちます。「キリストが持っている知識」か、それとも「キリストを知るということ」かです。コリントの信徒への手紙二2章14節に倣って、ここも後者の意味に解することが順当です。そして「知る」という言葉は、ヘブライ語の背景を持ちます。単なる知識としてキリストを知るということではなく、人格的に知る、キリストとの交わりに入るという意味です。聖句をたくさん覚えているとか、キリスト教教理を理解しているとかという知識ではなく、イエスをキリスト(自分と世界の救い主)として受け入れているということです。
全てにまさる優越性が、キリストとの交わりにあります。パウロは自分自身がぺしゃんこにされ、独り沈思黙考の中でキリストとの交わりを得たのでした。JK