11/27の聖書のいづみでは、フィリピの信徒への手紙3章8節後半-9節を学びました。以下にギリシャ語の語順を意識した直訳風私訳を記します。
8 それは、キリストを私が獲得するため、
9 また彼において私が見出されるためである。(私は)律法由来の、私自身の義を持ち続けていない。むしろ、キリストの信を通してのそれ〔義〕を、かの信に基づく神由来の義を(持ち続けている)。
「信仰義認」という教理があります。しばしば親鸞の説く徹底的な他力本願と類比される、宗教的救済に関する教えです。どんなに敬虔な行いであったとしても、自分の行いによっては決して自らの救いを獲得することはできないという主張において、親鸞とパウロは共通します。
パウロにとって敬虔な行いというのは、ファリサイ派として律法を遵守しながら生きるということです。「義」という状態は、ユダヤ人の言葉遣いに従えば、律法をきちんと守る生き方によって神に認められることです。しかし、パウロ自身の経験が正にそうですが、このような義を目指す生き方は結局人間の間に上下をもたらす権威主義に行き着きます。律法を守ることができる人とできない人との分断です。分断や抑圧を引き起こすのならば、律法を守ることは救いをもたらさず、むしろ、自分が罪深いということを教えるだけの機能しか持ちません。
宗教改革は、「信仰のみ」をスローガンとしました。「信仰のみによる救い」は、キリストを信じるということなのでしょうか。福音書のイエスは、「あなたの信があなたを救った」と語りますから、「キリストへの信を通して義とされる」にも根拠があります。しかし、それは信じるという「人間の行為による救い」と似てしまいます。信仰が律法の一つになるなら、その権威が分断を起こしえます。
文法的には「キリストへの信仰」ではなく、「キリストが信実であった」とも解せます。つまりキリストが神に誠実であった、実に十字架に至るまで信実だったということを通して、人は救われたということです。私たちの行いによらず2000年前に十字架と復活の救いは完成しました。信仰告白の言葉でさえも聖霊が働いて初めて発せられるのですから、私たちの救いは徹底的に他力(絶対他者である神)によってのみ起こされる神由来の出来事です。
イエス・キリストの示した、神と世界への信頼に値する誠実さを、わたしたちは「アーメン」と受け入れるだけで救われます。JK