明けましておめでとうございます。
倅が小さかった時には、二人で大晦日のカウントダウンをし、必ず年明け時にジャンプをし(萩本欽一さんの様式で足を前後に開きつつ)、その直後に向き合って土下座をして「明けましておめでとうございます」と言い合ったものです。「年が切り替わる一瞬、われわれは地球上にいなかった」などとほざくのを常にしていました。何とも馬鹿馬鹿しい過去の恒例行事。息子が中学生になる頃には自然消滅していましたが、ふと思い出し歳末カウントダウンジャンプを試みました。しかし、準備と覚悟が足らず、いつの間にか新年になっていました。「もう2020年になってるよ」と大人になった息子に冷静に告げられ、軽くへこんだ年明けでした。
素人が日常生活で馬鹿馬鹿しいことを繰り広げて内輪で笑うことと、玄人が見ず知らずの不特定多数の人々を故意に笑わせることとは、およそ次元が異なります。後者は芸能に属するからです。昨年来、甥がその道を目指していることもあり、この年末年始は漫才等お笑い芸について観る機会が増えました。才能あふれる若者たちが、さまざまな笑わせ方を追求していることに感銘を受けています。
聖書の中でイエスが笑ったという記事はありません。しかし当然彼は笑ったことがあるでしょう。真の神であり真の人(人となった神)であるのならば、当たり前の推測です。たとえばマルコ福音書7章24-30節に、イエスととある女性の対話が記されています。29節のイエスの発言は笑い混じりであるように思えます。
聖書の中でイエスが他人を笑わせたという記事はありません。しかし当然彼は人を笑わせたことがあったでしょう。人を笑わせることと人を救うことは、ほとんど同じ意味です。その人の肯定的な感情を引き出す行為だからです。イエスによって癒された多くの人は、喜び笑ったことでしょう。看病や介護をしていた人々もそうです。イエスは徴税人・娼婦・子どもたちを訪ずれ招き共に食卓を囲み、彼ら・彼女たちを笑わせました。また、彼ら・彼女たちを嘲笑う権力者たちを論破することによって、彼ら・彼女たちに笑いを与えました。
聖書の中でイエスが笑われたという記事はたくさんあります。笑いは、上下関係の濫用や、差別・偏見と深く結びつきます。「ナザレから何の良い者が出るか」「大工の息子」「マリアの息子(父親知らず)」「大酒飲みの大飯食らい」「罪人の仲間」。極めつけの「他人を救ったけれども、自分を救えない」との嘲笑は示唆に富みます。キリストが自身笑われることを引き受けながら、全ての人に肯定的な感情を与えようとした救い主であることに、わたしたちの希望があります。JK