2020/01/22今週の一言

1/22の聖書のいづみは、いづみ幼稚園父母の会主催の講演会に合流しました。講師は絵本作家の木村祐一さん。印象深いお話でした。興味をもった部分に、自分なりの感想を混ぜて少し書き留めておきたいと思いました。

木村さんは映画ジュラシックパークを観たときに、すべての娯楽映像の中に「鬼ごっこ」と「かくれんぼ」の要素が含まれていることに気づいたというのです。それこそ、遊びというものの本質なのだそうです。

人はなぜわざわざ怖い思いを愉しむのでしょうか。お金を支払ってまでホラー映画を観たり、お化け屋敷に入ったり、ジェットコースターなど「絶叫マシーン」に乗ろうとしたりする心理は、どこから来るのでしょうか。その大前提には、絶対に安全であるという確信があります。本当には危険な目に合わないということを知っているから、怖い思いをするスリルを味わうことが遊びとして成立するのです。

人類が「安全な場所に自分はいるのだという確信」を持つことができるようになったのは、400万年前だそうです。それまでは人類も弱肉強食の食物連鎖の中にいました。安全な場所がどこにもないという状態です。

しかし、人類だけが火や道具を使うことによって、動物に襲われにくい「安全な集落」をつくることができるようになりました。地上で比較的弱い動物である人類が、食物連鎖から飛び出て「食べられない動物」になったのは、弱いものも集まれば強い・弱いものを守る方が強いという逆説に気づいたからです。その安全な空間の中で、遊びは発展します。そしてその最初期に発案された遊びが、鬼ごっこやかくれんぼではなかったかと、木村さんは大胆に推測します。

鬼から逃げることや鬼になって追い回すことは、狩る者と狩られる者が交替する遊びです。捕まった時に、実際に殺されるわけではありませんが、そのスリルを味わえます。鬼から隠れることや鬼になって探し出すことも同じです。子ども時代になされる、これらの遊びは、かつては「職業訓練」の側面を持っていたことでしょう。またルールを守ることが楽しいということも学ぶので、「自治の訓練」(主権者教育)にもなっていたことでしょう。

いづみ幼稚園にも、キャンプの一部に「肝試し」のようなものがあったり、お泊まり保育で園長が「怪談」を聞かせたり、豆まきで「鬼」が登場したりします。自分自身、「この恐怖体験の教育効果は何なのだろうか」と、ずっと自問してきました(怪談はやめました)。ひょっとすると大人のサディズムを満足させているだけなのではと思うこともあったり、あるいは子どもたちに恐怖感だけが残ったらどうしようという逡巡もあったりします。

もしも、これらの恐怖が「自分は安全な場所にいる」という確信を土台にしたものであるならば、遊びとして成り立つ人もいることでしょう。しかしそのような確信を持っていないならば、その人にとって幼稚園は怖い場所としてしか認識されないのでしょう。だから本当に問われているのは、信頼関係が真に構築されているのかどうかということなのでしょう。JK