2020/10/07今週の一言

「反ユダヤ主義」という言葉があります。主にキリスト教世界によってかたちづくられたユダヤ人差別のことを指す言葉です。差別は力関係の不均衡によって強化されます。ユダヤ教ナザレ派(キリスト教)がユダヤ教の中で少数者であった時、またローマ帝国の中で少数者であった時、ユダヤ人差別はそこまで強くありませんでした。しかし、キリスト教がローマ帝国によって公認され、国教化された後、ユダヤ人たちは「教理的に」公然と差別されることとなりました。

つまり「キリスト殺し」の罪をユダヤ人たちにかぶせるという仕方です。キリストを殺したユダヤ人をいくら差別し殺しても構わないという思想が、キリスト教界には未だに残っています。一つの頂点はナチス・ドイツのユダヤ人大虐殺でしたが、ヒトラーだけの極端な思想なのではなく2000年間続いている伝統であり、その意味では欧米世界が共有している「文化」の一部です。

反ユダヤ主義は、新約聖書の中に芽があります。代表的な聖句は、マタイによる福音書27章24―25節です。イエスを処刑した責任を、ローマ帝国からユダヤ人へと転嫁しています。そして子々孫々までその責任を負うとユダヤ人群衆は明言しています。マタイが基にしたマルコ福音書にはこの部分はないので、マタイないしはマタイ福音書を用いた教会が、自分たちの意見として付け加えたのは確実です。なぜでしょうか。

紀元後1世紀のキリスト教会は、ローマ帝国からの断続的な迫害に悩まされていました。ローマ帝国をあまり刺激したくないという意識は、教界全体に行き渡っています。イエスを処刑したローマ帝国の責任を軽くさせようという意図が付け加え箇所には見えます。使徒言行録2章23節にも通底している意図です。

もう一つの意図もあります。異端の一派である「ユダヤ教ナザレ派(キリスト教会)」を激しく迫害し会堂から追い出していたのは、当時形作られつつあった「ユダヤ教正統派」です(ヨハネ9章22節)。会堂追放は、ユダヤ人社会における公民権の剥奪を意味します。会堂は、自治会館であり学校でもあり社交の場でもあったからです。ユダヤ人キリスト教徒たちは、ユダヤ社会の仕打ちに憤りを感じていました。それが付け加えのもう一つの意図です。

聖句に現存するがゆえに厄介なのですが、それだからこそキリスト者の責任として反ユダヤ主義を批判し克服すべきです。復讐を禁じる教えも聖書にはあります。全ての人が神の像であるという言葉もあります。キリストを殺した罪はユダヤ人だけではなく全世界の人が負うべきものです。イエスもユダヤ人の一人でした。JK