2021/01/06今週の一言

昨年十月から東京バプテスト神学校でイザヤ書の講義を担務しています。学者でもなんでもない、ただの「旧約オタク」なので毎週四苦八苦しています。ただしヘブライ語に触れる機会を増やしていただいていることに感謝しています。全15回の講義のうち第9回目まで来ました。やっと55章まで終わりました。

イザヤ書53章は初代教会にとって最も重要な聖句だったと推測します。特にペトロを筆頭とする「十二弟子(十二人の男性高弟)」にとって、そうです。なぜなら彼らは全員漏れなく師イエスに背いたからです。彼らのイエスに対する裏切り・背反・見棄ては、イエスを殺すことに直結しました。不当な真夜中の裁判と死刑判決、拷問と死刑執行、衣服の剥ぎ取りと嘲笑。人間の尊厳を奪われてイエスは虐殺されましたが、この横死の悲劇性は仲間による背反によってさらに深刻になります。

女性弟子たちよりも男性弟子たちは落ち込んでいたことでしょう。特にペトロは大口を叩いた割にイエスとの関係性を三度も否定してしまう不始末をしでかしています。不甲斐なさに落ち込む二日間だったことは察して余りあります。

この男性弟子たちが立ち直り、イエスの「神の国運動」を継承する「初代教会運動」を興すためには、二つの出来事が必要でした。復活のイエスに出会うことと、十字架の出来事についての旧約聖書に基づく根拠づけです。被害者イエスの殺害が、加害者弟子たちの加害の罪を赦すための「代理の死」であるという逆転。イザヤ書53章の苦難の僕がイエスであるという読み解きが、十字架の犠牲が自分たちの罪を赦す、身代わりの供え物だったという「贖罪信仰」を生みます。

ルカは、復活者イエスがエマオへの途上で二人の男性弟子に「メシアの必然的苦難の預言が自分の身に実現した」と教えたことを伝えています(ルカ24章)。これはイザヤ書53章の「苦難の僕」についての言及でしょう。復活者イエスは四十日間の共同生活において百二十人ほどの弟子たちにも、メシアの苦難を説いたはずです。ルカ文書には贖罪信仰はほとんど顔を出しません。ルカの教会は贖罪信仰よりも復活信仰に力点を置いていると思われます。初代教会の信徒たちの使命は「復活の証人」であり続けることなのです。そのようなルカであっても、宣教者フィリポがイザヤ書53章を用いていることを報じています(使徒言行録8章)。初代教会の信仰の中心に「苦難の僕」である十字架の主イエスがあることは明らかです。

今日的には、この贖罪信仰が「必ず赦されることに安住して悪事を行い続ける」という開き直りや、「大きな正義のために小さな悪事は許容される」という主張に利用されないように気をつけなくてはいけません。JK