なぜイザヤ書は66章もあるのでしょうか。イザヤがそれだけの文筆家だったからという答えでは今一つ納得できません。同時代の紀元前8世紀の預言者たちはみな似たような長さです(アモス9章、ホセア14章、ミカ7章)。なぜ同じ時代の預言書なのにイザヤ書だけが頭抜けて長いのでしょうか。おそらく元来のイザヤ書は20章分ぐらいの長さだったと思われます。
イザヤ書にある程度匹敵する長さを持つ預言書はエレミヤ書(52章)とエゼキエル書(48章)です。三つの預言書を「三大預言書」とも総称します。二人の預言者は同世代人。前7-6世紀という共通項があります。そしてエゼキエル書はほぼ一人の人の書下ろしに近いと考えられます。それに対してエレミヤ書には大量の加筆と編集がなされたことも明らかです。ギリシャ語訳のエレミヤ書は八分の七の分量しかありません。エゼキエルという預言者は前6世紀の「大預言書」の標準の長さを創出したように思います。
イザヤ書が一人の人の書下ろしではないことは学問的定説です。それによれば大まかに言ってイザヤ書は、前8世紀に書かれた部分(1-39章)と前6世紀に書かれた部分(40-66章)に分かれます。細かく分析すると前7世紀以降の加筆が相当量1-39章にもあるのですが、ここでは詳細を割愛します。ともかく、この仮説は200年以上もイザヤ書を保存し加筆し続けた人々がいたことを前提にしています。預言者イザヤの弟子たちです。おそらくこの人々が数百年かけてイザヤ書をエゼキエル書以上の分量に増やすことを一つの目的にして「成長」させたのではないでしょうか。
しかし新たな疑問も湧きます。なぜその人々は自らの預言書とせずに「イザヤ書」に加筆し続けたのでしょうか。なぜ前7世紀の加筆は少ないのでしょうか。
前7世紀に加筆した弟子たちは名前を隠さざるを得なかったと推測します。伝説によればイザヤは権力に粛清されています。前7世紀マナセ王の時代には言論統制があり、マナセ王の治世には預言者は登場しませんでした。イザヤの弟子たちは密かに少しずつ加筆せざるをえませんでした。その一方で古代には著作権という考え方がありません。尊敬する師匠に自分自身が同化していっても構いません。尊敬するがゆえに弟子たちは自分の時代状況に合わせて、「師イザヤならばこの苦しい事態に向けてどのように預言するか」を、師の名前のままで加筆し続けます。
この伝統が前6世紀まで続いたことと前述エゼキエル書の存在が、イザヤ書を最大分量の預言書に押し上げたと推測します。 JK