ステファノの裁判には不思議なことがあります。なぜ逮捕され処刑されたのがステファノであり、ペトロではないのかという点。最高指導者はペトロや十二使徒のはずです。当局がユダヤ教ナザレ派の根絶を図りたいのなら前例もあるのですからペトロとヨハネを逮捕し処刑する方が近道ではないでしょうか(4-5章)。
ペトロとヨハネの裁判の際には、律法教師ガマリエル(パウロの師)が二人をかばいました(5章33節以下)。なぜステファノの裁判においてガマリエルはステファノをかばわなかったのでしょうか。
さらに言えば、アリマタヤ出身のヨセフやニコデモら、「イエスの弟子」である最高法院議員はこの時何をしていたのでしょうか(ヨハネ19章38節以下)。使徒言行録によれば議員全員の心は一つになって、つまり全員賛成で、ステファノの処刑は執行されているように読めます。ヨセフもニコデモも、ステファノを殺す側に立ったということでしょう。
学者たちはここにエルサレム教会内の多様性を推測します。さまざまな意見の違いや、信徒たちの社会的背景の違い、福音というものの捉え方の違いが、最初期から教会にはありました。「宗教改革」(プロテスタント側の言い方)だけが「分裂」(カトリック側の言い方)ではないのです。
教会内部にある振れ幅の一つの極は、ユダヤ教「正統」に限りなく近い立場です。エルサレム神殿にも参拝し犠牲祭儀も捧げ、割礼という儀式も重視し、アラム語のみを用いるユダヤ人信徒たち。ペトロやヨハネら「十二使徒」はここに位置づけられます。だからこそ、「使徒たちのほかは皆」(8章1節)エルサレムの外へと散らされたのでしょう。律法教師ガマリエルも、その弟子であるパウロも、この立場の「ナザレ派」の主張については苛立たなかったわけです。
もう一つの振れ幅の極がステファノやフィリポたちの立場です。非ユダヤ人やユダヤ教への改宗者を中心にした群れです。エルサレム神殿を不必要と断じ、割礼も行う必要もないとする、ギリシャ語訳聖書もサマリア五書も用いる信徒たち。この人々は既存の秩序であるユダヤ教「正統」を脅かす存在です。それだから最高法院議員は全員一致でステファノの処刑を即断したのでしょう。
上記の極左の立場が、現在のキリスト教の源泉です。JK