2021/08/25今週の一言

子どもの頃の夏休みの思い出と言えば、虫や小動物を追いかけ回していたぐらいしか記憶にありません。家族旅行の経験もなく、ただ、どぶ川や空き地を駆けずり回っていました。早朝起きて八王子まで自転車で行ってカブトムシやクワガタを捕ったり、ザリガニやカエル(オタマジャクシも)を水槽で飼ったり、空き地で掴まえたバッタやカマキリを虫かごで飼ったり、セミやヘビやトカゲ、地蜘蛛や蟻地獄など、被造物たちにはお気の毒なほど遊んでもらいました。宿題なんぞをする暇がないという極楽とんぼぶりで、8月31日になると溜まった宿題を殴り書きして翌朝提出したものです。

如上の経験が影響してか、宿題なるものの教育効果についてはいまだに懐疑的です。勉強好きな人が復習や予習をするのは「どうぞご自由に」と思います。しかし、好きでもない人がやらされる勉強というものは、結局その人を勉強嫌いにするだけなのではないでしょうか。「やりたい時が伸びる時」。やらされている時には作業効率も悪いものです。好きなことを好きなだけしたら良いのではないでしょうか。子どもには遊ぶ権利があるのですから。

自分が親になってから益々宿題に対する懐疑心が深まりました。何と、子どもの宿題に親が付き合わされる羽目になったからです。「子どもの国語教科書の音読の宿題を保護者が聞いて評価をつけよ」ですと。家族の不和を誘発させようという意図でもあるのかしら。はたまた保護者も「学校の課す宿題に協力するように」という宿題を負わされているのかしら。何のねらいがあるのでしょうか。

宿題に教育効果があるのかどうかは世界的にも論争があるようです。米国は宿題が多いことで有名です。わたし自身も大学院で、また娘も公立小学校で宿題に苦しめられました。その一方で北欧諸国には宿題がないと聞きます。特にフィンランド。宿題が一切なくても、子どもの学力について言えば、フィンランドは日米よりもずっと良く常に世界一位か二位なのです。

米国時代、娘に課された宿題には驚きました。○○△□などの羅列が記されており、「○○△の次は何か」という数学の「数列パターン」の問題を6歳に問うていました。また、「不可能なものは何か」という絵の問題は論理学です。豚が空を飛んでいる絵を不可能と答えることが期待されています。ねらいは明瞭です。JK