以下は父母の会の礼拝説教の内容です。
わたしの恵みはあなたに十分である。コリントの信徒への手紙二 12章9節
この言葉は、神がパウロという男性に語りかけたとされる言葉です。パウロというユダヤ人男性が、自分はかつてこのような神の言葉を聞いたというのです。「わたしの恵みはあなたに十分である」。紀元後1世紀の人です。
「神の言葉って聞こえるのか」「恵みって何だ」「十分とはどんな意味か」などなど、疑問が湧いてくる言い方です。あまりにも神がかっているからです。
この時パウロという人は人生のどん底にいました。持病または障がいがあったからです。てんかんであるとか、眼の病気だったとか、さまざまな推測がなされています。この障がいないしは病気をなくしてほしいと神に必死に祈ったというのです。苦しい時の神頼みはわたしたち現代人でもします。ましてや古代人のこと、熱心に祈ったことでしょう。その時の神の答えが、「わたしの恵みはあなたに十分である」という冒頭の言葉だったのだそうです。
もちろん空耳や気のせいかもしれません。しかし大切なことは本人にとって、それが神の言葉としか思えなかったという強い主観です。おそらく内容がショッキングだったからです。思いもよらない方角からの言葉だったからでしょう。「自分の惨めな境遇について、今までそんな風に考えたことはなかった」という驚きがパウロにありました。
「恵み」というものは、神が世界に与えた贈り物という意味の言葉です。唯一神教の場合、嫌なことも神が与えたものと考えます。パウロの病気ないしは障がいも、神が与えた贈り物です。それ以外のことがらも、すべて神がパウロに与えたものです。いろいろまとめて考えると、人生はそんなに悪くないものです。圧倒的に多くのものを、また多くのことを、神はパウロに与えていました。それはわたしたちにも当てはまります。ひどいことも多いけれども、それでも人生は悪くないのです。
子どもはすぐに「ずるい」と言います。不公平な扱いに敏感です。それはそれで良い気づきなのですが、そのままいじけて思考停止になる場合は困った事態です。ある意味でショッキングな内容をもつ言葉が、その子どもを立ち直らせることがあります。あなたは怒っているけれども、それは本当に正しいのか。あなたにはたくさんのものが溢れるばかりにすでに与えられている。このような気づきを子育ての中でも、子どもたちに与えたいし、逆に子どもたちから与えられたいと願います。JK