師走となりました。教会暦で言えば待降節Adventです。イエス・キリストの一度目の到来を記念し、再び来られるイエス・キリストを待望する季節です。
娘が生まれた四半世紀前には、「赤ん坊が来るということはこういうことか」と、驚き、毎日慌てふためいたものでした。マリアさんやヨセフさんも大変だったのねと、妙に親近感を持ったものです。何しろ何かしらの世話を常にしないといけないのですから、家じゅうが赤ちゃん中心に回ります。「赤ちゃんは一度出てきたらお腹の中に戻すことができないのだ」と、嘆息しながらその不可逆性を受け入れたことを思い出します。そのような娘や息子もそれぞれ就職して家を離れました。
昨年亡くなった愛犬リックが我が家に来た時にも、赤ん坊の到来と似たような感慨がありました。我が家に来る前には閉じ込められていたので、家犬としての躾を全く受けていない犬でした。部屋のどこであれ糞尿を垂れ流すは、鏡に映った自分に挑むは、テレビには驚くは、焼き芋屋には遠吠えするは、家族が楽しみにしていた玉ねぎスープをこっそり飲み干すは、本当に世話の焼ける犬でした。
丸刈りにして臭いを取って倅とぬるま湯に入れたり、栄養満点のチキンスープがけドッグフードのチーズトッピングをあげたり、散歩に連れ回したり、こちらも家じゅうが犬中心に回ります。「犬が家に来るということはこういうことか」と学んだものです。もしも娘や息子の子育てに関わっていなければ、犬の世話をすることは私には無理だったと思います。なにしろ元々私は犬が苦手だったのですから。
今年の待降節の一日、妻の母と同居することとなりました。物忘れを得意とする母との生活は、ほとんどドリフターズのコントみたいなものですが、「義母が来るということはこういうことか」と学ぶ毎日です。母と一緒に毎晩風呂に入る妻を「偉いな」と思いつつ、私は愛犬とではなく母と毎朝散歩に励んでいます。
散歩中、「啓ちゃんは毎朝散歩しているの」「はい」「えらいね」「いやいや」。30秒後、「啓ちゃんは毎朝散歩しているの」「はい」「えらいね」「いやいや」。40秒後、「啓ちゃんは・・・」。いつまで私を娘の夫と認識していられるか、家族の中で誰が一番先に母の記憶から消えるか、少し気になりながら、待降節の意味について思いを馳せています。 JK