2022/01/12今週の一言

以下は、『いのちのことば』2022年2月号の拙稿です。

 

旧約聖書を原語のヘブル語で読む魅力とは何でしょうか。

一つはヘブル語の持つ「素っ気なさ」に触れることだと思います。「え、そんなに短かったの」という驚きがしばしばあります。たとえば創世記3章9節。神から人への根源的な問いである「あなたはどこにいるのか」という有名な聖句は、たったの一単語「アイェカー」です。この余白の多さが、古池に蛙が飛び込んだ直後の静寂のような余韻を残します。

素っ気ない割に、駄洒落が多いことも魅力の一つです。

イザヤ書5章7節の新改訳はこうです。「主は公正を望まれた。しかし見よ、流血。正義を望まれた。しかし見よ、悲鳴。」ここで「公正(ミシュパート)」と「流血(ミシュパハ)」が、また、「正義(ツェダカー)」と「悲鳴(ツェアカー)」が語呂合わせになっています。ヘブル語で読まなければ分からない掛言葉です。預言者はオヤジギャグの使い手なのです。

掛言葉は駄洒落にとどまらない本質的な使信を含む場合もあります。

「アダム」(人)という言葉は「アダマー」(土)という言葉と語源が同じです。このことは、聖書の人間観を明示しています(創世記3章19節)。人間は滅ぶべき弱い存在です。この人間観は預言者エゼキエルに対して神が常に「人の子よ」(ベン・アダム)と呼びかけることと呼応しています(エゼキエル書2章1節他多数)。滅ぶべき弱さを痛感しているエゼキエルに、神は優しく語りかけているのです。イエスはそのような儚いわたしたちに対する深い連帯感をもって、「わたしは」という意味で「人の子は」と語りました。

原典を直解する魅力は「意味の広がり」に気づくことにもあります。ヘブル語から日本語への翻訳可能性の多さを知り、それを楽しむことができるということです。

(続く)

JK