以下は、『いのちのことば』2022年2月号の拙稿の続きです。
原典を直解する魅力は「意味の広がり」に気づくことにもあります。ヘブル語から日本語への翻訳可能性の多さを知り、それを楽しむことができるということです。
たとえば先ほどの「アダム」は「人」という意味だけではなく、個人名「アダム」という意味をも持ちます。だから翻訳者は、文脈上許容される限り任意で「人」とも「アダム」とも訳し分けることができます。創世記3章21節のヘブル語「アダム」を、新改訳・新共同訳は固有名詞「アダム」と訳していますが、聖書協会共同訳・口語訳は普通名詞「人」と訳しています。翻訳である限り一つの訳語を選ばなければならないという苦しい事情があります。もしヘブル語を知っていれば、この曖昧さ・両義性を放置したままに、原語の豊かな意味をくみ取ることができます。
創世記4章1節のエバの発言「私は、主によって男子を得た」(新改訳・聖書協会共同訳・新共同訳)にはいくつかの可能性があります。「男子」ではなく「人を得た」(口語訳)とすることもできます。「男子」「人」と訳された単語「イーシュ」の原意が、「男性/夫/各人」だからです。この点を広げると、エバは主と共に「夫」であるアダムを獲得し支配したという意味にも解しえます。さらに、「によって」という言葉は、――「と共に」が直訳ですが――、同綴りの「を」という意味に考えることもできます。かなり強引ですが、「私は夫(によって)主を得た」という、命の主への挑戦ととることも不可能ではありません。エバ(命の意)の真意はどこにあるのでしょうか。
正典は時代や場所を超えて普遍的・不変的な真理を示しています。その一方で、正典はあらゆる時代や場所において、そこに生きている人々の生活のために解釈されることを欲しています。「あなたはどう読むのか」が信徒にいつも問われています。原典の持つ曖昧さや両義的・多義的な性格は、わたしたちを「思い巡らし」という巡礼の旅に誘います。このみ言葉は、今・ここで・わたしにとって何を意味するのか。霊性を深める旅に、すべての人が招かれています。 JK