今回はソロモン、ダビデとバト・シェバの二番目の息子です。
ソロモンは異母兄アドニヤと血みどろの争いを繰り広げた後に、ダビデの後継者となった王です。この争いは王宮内の二大勢力である「伝統的イスラエル系重臣」と「新規カナン系重臣」との権力闘争でもありました。ソロモンは後者(祭司ツァドク、預言者ナタン、軍司令官ベナヤ等)の支持のもと王となったのでした(サム下8章16-18節と王上4章2-6節を比較参照)。
王となったソロモンは王権を強化する、中央集権的な「行政改革」を行います。伝統的な十二部族ごとの自治に代わって、行政区分けも変え、ソロモンが任命する十二人の知事が新「行政区」を統治・収税するようにしたのです。こうして王の常備軍、王のための労務者を確保しました(王上5章)。その上で、王宮(「王の家」)建築と神殿(「ヤハウェの家」)建築を、一大国家プロジェクトとして推進します(同6-9章)。隣接する「二つの家」建築事業はダビデ王の悲願でもありました。
それと同時にソロモンは外交に力を入れます。北西の先進地域フェニキアのティルス王ヒラム、シェバ(エチオピア/アラビア?)の女王、南の超大国エジプトとの友好関係は貿易による益を生みます。「ソロモンの富」です(同10章)。
ソロモンは近隣諸国とは軍事安全保障政策の観点で「政略結婚」を多用していました。エジプト、モアブ、アンモン、エドム、シドン、ヘトなど諸外国から、千人の妻たちが彼にいました。ソロモンは妻たちの国に侵略戦争を起こしません。そして妻たちの出身地の「神々への信仰」に率先して与します(同11章)。
ソロモンはイスラエルが大切にしてきた伝統に対する挑戦者です。その意味で自由な批判知をもった人物です。「箴言」「コヘレトの言葉」「雅歌」の著者にソロモンが目されていることは、示唆深い事実です。これらの書の内容がかなりバラバラであるからです。「ソロモンの知恵」とは。むむ。JK