私が養う エゼキエル書34章11-16節 2024年6月23日礼拝説教(長尾基詩神学生)

挨拶

本日は泉教会の皆様と神学校週間を覚え、共に礼拝をささげる喜びに与れますことを大変にうれしく思います。私の属する西南学院大学神学部には今年、3人の新入生、一人のリカレント生が加わり、全員で8名の神学生が在籍しております。そのほとんどが神学生専用の寮で共同生活を送りながら、神学の学びを行っています。私個人の話をさせていただきますと、現在西南神学部に入学して4年目になり、今年卒業論文提出と大学院入試のため、日々準備中でございます。

 私たち神学生は、奨学金によって学費、寮での生活費を賄っていただいております。これは全国壮年会の皆様が主体となって運営してくださっている神学校献金が元になっており、元をたどれば神学校のことを覚えて献金をお献げくださった皆様の祈りによって成り立っております。神学生を代表して皆様に感謝申し上げます。近年は献身を志す神学生の数が年々減少しておりますこともどうぞお祈りにお覚えください。一人でも主に教会に仕えるという気持ちを持った仲間が増えることは私たち神学生の切実な願いでもあります。

「牧師として立つ」とは

 このようにして一年に一度神学校について覚えていただく神学校週間があることは何より感謝なことです。これは諸教会におかれましてもそうですし、私達神学生にとっても大切な期間なのです。本日のようにして多くの教会から礼拝説教奉仕や神学校紹介のご依頼を頂きます。またこの時期に合わせ、神学生紹介動画を作成したり、神学校週間を覚える集いを開催したり、と多くの活動が行われます。

その中で神学生に毎年問われるもの。それは主からの召命を受けて立つということがどういうことなのか。私たちはどのような牧者へと召し出され、期待を受けているのかという事です。この問題は簡単なようでいて実はとても深く、日々生活の様々な場面で神学生としてふさわしい学びとは何かを考える身にとっては重いものなのです。私達バプテスト教会は身分としてではなく職分としての牧師を立て、そこに集ったイエス様に出会わされ、イエス様と共に生きていくと明確に決心し、その意思を表明した者達がキリストの体となって教会を建て上げています。そのような中で牧師になるということは一体どのような意味を持つのか。本日は聖書の声を聞きながら、考えていきたいと思います。

聖書における献身の記述

 聖書において、神様の声を聞き、その働きのために仕えることを決心する物語は多くあふれています。旧約聖書においては、アブラハムやモーセが神様と出会う物語、サムエルや預言者が神様の声を聞く物語、もしくは、神様と直接には出会わない形でも結果的には神様の働き手と召し出された人々の物語、モーセのきょうだいアロン、ミリアム、異邦の女性ルツ(彼女はダビデ、果てはイエス様の祖先となりました。)なども神様の大きな福音の計画の中には不可欠な存在だったと言えるかもしれません。

 また新約聖書には非常に特徴的な弟子献身の物語が語られます。ガリラヤの湖のほとりでイエス様が網を打っていた漁師に「私に従いなさい。」と言われた。その一言で弟子たちは彼らのすべてを投げ打ち、イエス様に従ってしまうのです。また、多くの書簡を残し、キリストを伝えることにその生涯をささげた使徒パウロはダマスコへ向かう道の途上で、十字架に付けられた姿のキリストに出会ったと言います。

エゼキエル34章

 様々な形の献身者の姿に圧倒されそうになりますが、現代の私たちは冒頭申しましたように預言者や王、祭司という形ではなく、役割としての牧師を立てております。この牧するという言葉に注目して聖書を読んでみました。エゼキエル書にはこうあります。

11節 実に、主なる神はこう言われる。私が自ら自分の群れを尋ね求め、彼らを捜し出す。

 ほかならぬ神様が牧者として羊を捜し出すというのです。これは私にとっては大きな発見でした。自分が牧者として立たねばという思いのもと、勉学に励んでいましたが、その中で大切なものを見失ってはいないかと神様から問われた気持ちでした。私たちの主がまず最も偉大な私たちの牧者である。これは教会に集うすべての人々がまず持たなくてはならない視点だと思います。では、神様の牧者としての働きはどのようなものでしょうか。私の専門は旧約聖書、ヘブライ語ですので、ヘブライ語本文の意味を丁寧に読み解きながら味わっていきたいと思います。

エゼキエル34章の全体像

 エゼキエル34章を1節から読んでみるとこの箇所が当時イスラエルにおいて民の牧者だった者に向けた批判の言葉であることがわかります。

1節 主の言葉が私に臨んだ。「人の子よ、イスラエルの牧者に預言せよ。預言して、彼ら、牧者に言いなさい。主なる神はこう言われる。災いあれ、わが身を養うイスラエルの牧者に。牧者は羊の群れを養うべきではないのか。

 エゼキエルは捕囚期に活動した預言者であることが知られています。捕囚期における民の指導者が一体どこまで統治の権力を持っていたのかは現在の研究ではまだわからないとされています。しかし、確実に言えるのはそこには4節にあるような弱ったもの、病んだもの、傷ついた者、迷い出た者、失せた者が大勢いたということです。バビロンとの戦争に敗北し、捕囚民として捕らわれていたイスラエルの中には確かに大きな悲しみがありました。しかし、その中で民を適切な形でケアし、仕えようとする者はいなかったのです。かえって、その責任にある者は脂肪を食べ、毛織物をまとい、肥えたものを屠ると言われています。主はその羊たちを本当に愛しておられます。それゆえにその羊をないがしろにする牧者たちには怒りが向けられるのです。私たちはこの感情に真摯に向き合うとともに、それ以上に神様が私たちを愛してくださっていることを感じたいと思います。

11節 主なる神はこういわれる。見よ、私は、私自らわが羊を尋ねて、これを捜し出す。

 16節私は失われたものを捜し求め、散らされたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病めるものを力づける。しかし私は肥えたものと強いものを滅ぼす。私は公正をもって群れを養う。

失われたもの

 群れを養うというのはどこか強さを求められるものかというイメージを持っていませんでしょうか。現代ではリーダーシップという言葉で表される形で私は少なくとも教会という現場で牧師として立つ以上、しっかりと能力や目標を誇示しなければというイメージを持っていました。しかし、神様の「牧する」というイメージはまず真っ先に失われたものへと向かうのです。この失われたものとはアーバドというヘブライ語が語源になっており、殺された、死んだ者とも訳せる強い意味の言葉です。これは、私たちにとって死という避けがたいものからも解放するイエス様の永遠の命を想像させるかもしれません。さらに言えば、この永遠の命は私たちから探し求めるものではないのです。神様の方から探し求め、見つけてくださるものなのです。

散らされたもの

 次の散らされた(ナーダーハというヘブライ語)ものとは駆り立てる、強く押す、追放するという意味を持っています。エレミヤが最も頻繁にこの語を使っており、特に捕囚期においては散らされたものを表します。教会に集わされた私たちはこの世界において散らされている者であるという実感をたびたび感じることがあります。教会は決して完璧な人間の集まりではありません。誰しも欠けを持っており、その中で互いに補い合いながら愛を持って結び合っています。また、教会という共同体の中から散らされたものという捉え方をすれば、事情があって教会に来られない方、最近姿が見えないなという方を思いあって、教会に再度招くことは神様が先立ってしてくださることなのです。

傷ついたもの

 傷ついた(シャーバル)ものとは、ただ単に傷がついただけというよりも、粉々に壊されたという意味を持ちます。このようなものを包み込まれると主は言われます。カウンセリングの大切な技術の一つにアドバイスをしないというものがあります。相手の言う事にただ耳を傾け、受け入れる行為、傾聴と言われますけれどもこれがまさに傷ついたものを包み込むということではないでしょうか。(これはバプテスト教会が率先して行っている事でもあります。教会に集うすべての人がそれぞれに御言葉を読んでどう感じたかを分かち合う時間、そしてその互いの声に真剣に耳を傾ける時間は傷ついたものを包み込むという視点においてとても大切な視点であり、他教派ではしばしばやっていないことがあります。)教会の中でもこのような姿勢を互いに持ち続けたいですし、伝道という視点でもキリスト者として教会の外で生きる時には真剣に痛みに向き合うことが結果的にキリストの愛を伝えることになるのです。

病めるもの

 病めるものとは、無関心のもの、感情を喪失した者との意味も持ちます。有名なユダヤ人心理学者のフランクルがナチスのユダヤ人強制収容所生活の体験を著した「夜と霧」では、あまりに過酷な収容所生活の中で、仲間が看守に殴る蹴るなどの暴行を受けてももはや何も感じることが無くなった、と書いています。私たちにも生活の中で同じことが言えないでしょうか。人からあまりに愛されることのない生活を送っている人がどうして他人を愛せるでしょうか。イエス様が教えられた第一の律法とは、すなわち神を愛すること隣人を愛することでした。しかし、私たちは見逃されがちな隣人を愛するという言葉の前に置かれた条件を思い起こしたいと思います。「自分を愛するように」あなたの隣人を愛しなさい。今皆さんは自分を愛することができていますでしょうか?神様の愛ゆえに私たち自らを愛するということが許されています。まずは自分を愛する所から始め、隣人への愛に開かれていきたいと思います。

神の公正

 最後の肥えたものと、強いものを滅ぼすというのは、少し強く聞こえる言葉ですけれどもここではあえて最後の「公正をもって」という語に注目したいと思います。「公正に」という語はシャファトから来ていてこれはもともと「裁く」という動詞から来ています。裁くと聞くと私たちには恐ろしい判決が下されて、自分が断罪されるかのような感覚を持ってしまいがちですけれども旧約聖書における「裁き」とは、弱いものの叫びが聞かれること、理不尽に貶められている側(自分の側)が正当にその訴えを聞かれることを意味します。ここで大事なのが、低くされたものがあげられ、高いものは下げられるという考え方であり、これはイエス様にまで通じる考え方です。このような考え方を取る時にやはり強いもの、肥えたものとは、強いまま、肥えたままの状態でいることは赦されず、何らかの変化を迫られることになります。そうさせることが神様の思い描く理想的な牧者の役割であり、イエス様の思い描いた神の国においては、主人と奴隷のような上下関係はもはやあり得ないのです。

牧者としての主イエスと私たちの応答

 ここまで、神様がどのように民を牧されるかについての知恵を見てきました。皆様に繰り返しお伝えしたいのは、全体を通して牧する者がすべき任務がケアであるという視点です。ガリラヤ湖のほとりで神の国を宣べ伝えたイエス様がまずしたことも病気の人や弱った人、傷ついた人のところへ行って、共に食事をし、癒しを与え、積極的に関わるという事でした。ここに私たちはやはりイエスキリストこそ神様が肉となってこの地上に生きてくださった方であり、最も偉大な牧者であるということを見ることができます。そしてこの働きはすべての人に開かれています。教会で互いのことを思いあい、祈りあうのは教会にいる全ての人ができるケアの仕方であり、責任でもあります。一人ひとりが牧者としての働きを自分のできる範囲で主から託されているという思いを持つことはとても大切なことです。また、この世界に目を向ければ、傷ついている人、弱った人、迷い出た人はまだ大勢いると言えないでしょうか。少なくとも私が高校生の時に教会で出会わされた人たちは、その多くが傷つき、弱さを抱えた人でした。しかし、神様の計り知れない恵みによってその人たちが癒され、包み込まれた結果、今では教会の中でかけがえのない働き手になっています。これは大きな恵みであり、まだまだこの恵みを伝える必要があると強く感じされました。私は主の召命に応え、まだ福音の伝わっていないところに積極的に行きたいと考えています。また一人でも多くの方が主の召命に応え働き人として召し出されることも願っています。皆様の中でどうかそのような召命が与えられたと感じた人がいましたらどうぞ祈りの中で主と誠実に向き合い、考えてください。私たちの神、主イエスキリストは本当に私たちのことを愛してくださっています。最も良い道を私たちに備えてくださるでしょう。お祈りをもって終わります。