はじめに
クリスマスの後日談としてイエス、マリア、ヨセフの三人はエジプトに逃げます。ヘロデ大王がイエスを殺そうとしたからです。わたしたちの救い主が生まれてすぐに難民となったことは示唆に富みます。ガザ地区に対する戦闘行為・虐殺行為が休止しました。「正しい戦争などは存在せず、また、間違った平和というものも存在しない」と言われます。欺瞞に満ちた駆け引きや根本的な解決ではなくても、人殺しが少しでも止まるならばそれは価値があります。わたしたちが想像しなくてはならないことは、ガザで殺されかけたけれども少しの間安全を手に入れた赤ん坊と、飼葉桶に寝かされ生後間もなくエジプトへと逃げたイエス・キリストが似ているということです。
19 さてヘロデが果てた後、何と、主の天使が夢によってエジプトにおけるヨセフに見られる。 20 曰く、起きた後、あなたはその子と彼の母とを傍らに取れ。そしてあなたはイスラエルの地の中へと行け。というのも、その子の生命を求め続けている者たちは死んでしまったからだ。
ヘロデ大王の死
イエス暗殺を目論んだヘロデ大王が死にました。前4年のことです。もしもイエスの誕生が前7年のことであるならば、ヨセフ・マリア・イエスの三人は三年ほどエジプトに住んでいたことになります。一家はアレクサンドリアという都市のユダヤ人街に暮らしていたことでしょう。そこはギリシャ語が公用語の大都会です。
アレクサンドリアに住むギリシャ語を話すユダヤ人たちは、史上初の旧約聖書の翻訳を行いました。前3世紀ごろから始まり、イエスの生まれた頃には全ての翻訳が完成していたと思われます。アレクサンドリアのユダヤ教会堂には、ヘブル語聖書とギリシャ語訳聖書が使われていたかもしれません。本は貴重です。自宅に一人一冊の聖書があるというような恵まれた環境にはなかったことでしょう。
ヨセフだけなのか、マリアもイエスも通えたのかは不明ですが、少なくともヨセフは毎週安息日の礼拝を町の会堂に通って捧げていたと思います。ヨセフは礼拝の聖書朗読当番も務めていたはずです。三年間いれば五書を三回読み終わります。いつかイスラエルの地に戻ることを希望しながら、エジプトの地でヨセフは申命記34章までを読み、約束の地に入れずに死んだモーセに共感し、創世記1章を読み直します。「光あれ。すると光があった。」
いつものように夕べがあり、寝床につき、夢を見ていた時に、主の天使がヨセフに見られます。そして天使はヨセフにイスラエルの地に行けと命じます。なぜなら、イエスの生命を殺そうと求めて続けていた、あのヘロデ大王が死んだからです。「死んでしまった」(20節)と強く訳しました。この部分は現在完了時制です。過去の出来事の効果が現在にまで及んでいることを表しています。ヘロデの死は単発の出来事ではありません。ヘロデから生命を狙われている人々すべての解放という効果を持ち続けています。ヘロデの死は、国家による殺害の休止です。天使は、この期間を用いて今こそ帰国せよと促しています。イスラエルの外から中へと戻れというのです。明けない夜はありません。夕があれば、必ず朝があるのです。
三年も住んだのですから、ヨセフにもアレクサンドリアという都市に対しての愛着はあったことと思います。ギリシャ語の会話も十分にできるようになったころです。もしも天使が促さなかったならば、ひょっとするとヘロデ大王が死んでも帰国を考えなかったかもしれません。息子イエスがギリシャ語をみるみる吸収しているのを見るにつけ、「離散ユダヤ人の一人としてエジプトに暮らすことも悪くないかもしれない」とヨセフは考えていたかもしれません。マリアと、アレクサンドリア定住の可能性を話し合うことも、また近所の人から「町の大工になってほしい」ともちかけられることもあったことでしょう。三回五書を読んだころという期間は、帰国を諦め定住を決意するころには丁度良い長さです。「朝は別に来なくても良いかも。このままうとうととまどろむような人生を過ごせば良いのでは。この大都会に住めばイスラエルよりも豊かな生活が保障されるのだから」。
主の天使は、そのヨセフを起こします。翌朝イスラエルの地の中へと旅立てとの御告げです。
21 さてその男性は起きた後、彼はその子と彼の母とを傍らに取った。そして彼はイスラエルの地の中へと入り来た。 22 さてアルケラオスが彼の父ヘロデに替わってそのユダヤを支配していると聞いた後、彼はそこに離れることを恐れた。さて夢によって神託を受けた後、彼はそのガリラヤの諸地域の中へと去った。
アルケラオスの支配
ヨセフは天使の言葉を素直に聞いて翌朝イエスとマリアを連れてイスラエルに向かって歩き出します。20節の命令どおりに、彼は「起きた後、彼はその子と彼の母とを傍らに取った。そして彼はイスラエルの地の中へと入り来た」(21節)のでした。ヨセフの行動は単語レベルでほぼ一致しています。最後の動詞「入り来た」以外は全部同じです。彼の忠実さ・誠実さが分かります。
「入り来た」ということですから、まずヨセフたちは広い意味のイスラエルの中へと入りました。それはユダヤ地方もサマリア地方も含む一回り大きなイスラエル領です。ところが、入った矢先に彼らは「アルケラオスが彼の父ヘロデに替わってそのユダヤを支配している」(22節)ことを聞きます。これは歴史的事実です。ヘロデ大王が死んだ後、領土は四分割されて息子たちが相続します。アルケラオスという人物は、ヘロデからその四分割のうちのユダヤ地方とサマリア地方を受け継いだ人物です。天使からはこの細かい事情を聞いていなかったのでヨセフたちは恐れます。アルケラオスもまたイエスの生命を狙っているのではないかと思ったからです。
神の言葉というものは多くの場合大まかな輪郭や方向性のみを指し示すものです。さきほどの「今が決断の時」というような天使の介入のようなものです。詳細については自分の頭で考えなくてはいけません。いったんイスラエルの中に入ったけれども、ユダヤ地方とサマリア地方とを迂回して、ヨルダン川の東側を歩いて行き、ヨセフたちは「ガリラヤの諸地域の中へと去った」のです。
23 そして来た後、ナザレと呼ばれている町の中へと居住した。そのようにしてその預言者たちを通して述べられたことが満たされた。すなわち彼はナザレ人と呼ばれるであろう。
ナザレのイエスの誕生
マタイ福音書においてヨセフがどこの町の出身者かは明らかではありません。ルカ福音書のクリスマス物語ではマリアがナザレの出身者であることが明記されているのと事情が異なります。22節と23節の書き方からは、ヨセフの帰郷という雰囲気がありません。やむを得ず入ったガリラヤの諸地域をめぐっていくうちに、ナザレという町を選んだかのような書きぶりです。
ナザレはガリラヤ地方の中でもかなり南で、サマリア地方に近い町です。この町がマリアの出身地だったからでしょうか。ヨセフはマリアにとって安心できる場所を選びます。ヨセフはナザレの町でも会堂で朗読当番を務めたことでしょう。ヨセフが誠実な信徒であることは息子イエスの召命記事の伏線です(ルカ福音書4章)。ナザレという立地は子育てに影響します。サマリア地方の近くに住むことで、イエスはサマリア人に共感を寄せる人物となっていきます。「良いサマリア人の譬え話」が示しているとおりです。そもそもギリシャ語先進文化に触れていることが、イエスの寛容な人格を形成しています。
ヘロデ大王による迫害と死、アルケラオスがユダヤ地方を支配したこと、これらの偶発的出来事が、イエスをナザレの人とします。正確に言えば、偶発的な出来事の中で、どのように判断するかが歴史をつくることとなるのです。キリスト者は、「ナザレ人たち」「(ユダヤ教)ナザレ派」と正統的なユダヤ教徒に呼ばれました。「異端」という意味合いの蔑称です。それはイエスの出身地がナザレだったことに由来します。もしもヨセフとマリアがエジプトから帰って来たときの居住地をナザレに決めなければどうなっていたのでしょう。
さて、23節にはマタイ福音書における五つ目の定型/成就引用があります。しかし、このままの聖句は旧約聖書には見当たりません。おそらくイザヤ書11章1節の一単語のことをここで引用していると推測されています。ヘブル語旧約聖書のイザヤ書11章1節後半に、「そして若枝〔ネツェル〕が彼の諸々の根から生える。」とあります。この若枝〔ネツェル〕をギリシャ語読みにする場合に、「ナゾライ」=ナザレ人となりうるからです。
イザヤ書に「ネツェルと呼ばれる」と書かれていないので、かなり強引な引用です。このような強引さで、マタイ教会は自分たちの信仰を言い表しています。「イエスは下から生えて来る若枝/つぼみである」という信仰です。
マタイ教会はダビデ王に由来する「上からの系図」を否定しています。イエスはダビデの子ではありません。エルサレムでもなくベツレヘム育ちでもありません。歴史の偶然と神の介入と両親の決断により、しぶとく下から生え出た若枝がナザレのイエスです。枝から出る芽は枝ごと払われるでしょう。しかし諸々の根から出る芽はあらゆる困難の中もしぶとく成長します。十字架と復活の主キリストは、ナザレのイエスです。
今日の小さな生き方の提案
マタイ教会に倣いたいと思います。わたしたちキリスト者の原点は、ナザレ人と呼ばれることにあります。十字架で殺された方、いや三日目によみがえらされた方が、諸々の根から生え出る希望の若枝ネツェルであると信じるナザレ人です。地べたを這うような思いで毎日を過ごすわたしたちです。見栄え良くない日常を過ごし、砂を噛むような出来事も多くあり、一直線の解決もなく、根っこのように地面を這ったり地上に出たり地下にもぐったり、わたしたちは人生で苦しい紆余曲折を強いられています。ヨセフやマリアのようです。インマヌエルの神は、ナザレ人と告白されている方です。わたしたちの人生を知り、その紆余曲折に希望の若枝を生え出させてくださり、新たな道を与えてくださいます。救いは下から起こります。根っこに生える芽を見つけましょう。