二回目の言葉 民数記23章13-26節 2025年3月16日礼拝説教

はじめに

イスラエルに対する呪いを依頼されたビルアムはイスラエルを呪うことを拒否し、自分もイスラエル人になりたいと言いました(7-10節)。今回はその続きです。

 

13 そして彼に向かってバラクは言った。ぜひ貴男のためにわたしと共に、そこから貴男が彼を見る別の場所に向かって。ただし貴男は彼の端を見る。そして彼の全部(を)貴男は見ない。そして貴男は彼をわたしのためにそこから呪詛せよ。 14 そして彼は彼をツォフィムの野、そのピスガの頂に向かって取った。そして彼は七つの諸祭壇を築いた。そして雄牛と雄羊をその祭壇で上げた。 

 

【別の場所】

バラクは場所が悪かったと考えました。全体は見えないものの確実にイスラエルの端を見ることができる場所に変えます。「ツォフィムの野」(14節)を新共同訳聖書は「見晴らしのきく所」と翻訳しています。「高台」程度の意味の言葉です。それは「ピスガの頂」(14節)でもあります。その場所はモーセが死ぬ直前に登った山です。彼は自分が入れない「約束の地」をピスガの頂からはるかに望み見たのでした(申命記34章1節)。バラクはイスラエルが約束の地を目指していることに反対なのかもしれません。イスラエルが目標としている場所全体を見ることができる山頂から、イスラエルの企図をくじく祈りをビルアムにするようにと、場所を変えて同じ依頼をします。ビルアムに言われる前に、七つの祭壇を築き、雄牛と雄羊を七頭ずつ連れて行きます。高い山の頂まで大きな動物を連れて行くことは、以前にも増して大変な骨折りです。彼らは少し慣れた手つきで犠牲獣を祭壇の上で殺し、燃やして煙を天に上げます。

 

15 そして彼はバラクに向かって言った。貴男はこのように貴男の献上物に接して屹立せよ。そしてわたし、わたしがこのように会われる。 16 そしてヤハウェはビルアムに向かって会った。そして彼は彼の口の中に言葉を置いた。そして彼は言った。貴男はバラクに向かって戻れ。そしてこのように貴男は語る。 17 そして彼は彼に向かって来た。そして何と彼が彼の献上物に接して屹立し続けている。そしてモアブの高官たちは彼と一緒に。そして彼にバラクは言った。何をヤハウェは語ったか。 

 

【神の言葉への集中】

ビルアムは前回と同様に、バラクと高官たちに各自の祭壇に接したまま屹立し続けているようにと命じます。自分は前回同様一対一でヤハウェと会うのです。ヤハウェも前回同様、ビルアムの「口の中に言葉を置」きます。ビルアムはその言葉を飲み込まないまま、自分なりにかみ砕くこともせず吐き出さなくてはいけません。そうすることで「言葉(ダバル)」は「出来事(ダバル)」となります。驚くべきことにビルアムを待っている間、バラクと彼の高官たちは忠実に祭壇の前に屹立し続けていました。この姿勢は、「僕は聞きます。主よ、お語りください」という少年サムエルの敬虔な姿勢と似ています。信徒にとって「何をヤハウェは語ったか」(17節)は、最大の関心事であるべきです。にわか信徒であるバラクが敬虔な所作をしていることに強烈な皮肉があります。彼は心から神の言葉が地上に実現することを信じているのです。

 

18 そして彼は彼の箴言を持ち上げた。そして彼は言った。貴男は起きよ、バラク。そして貴男は聞け。貴男はわたしにさえも聴け。彼の息子、ツィポルよ。 19 神〔エル〕は男性ではない。すなわち彼は嘘をつく(のだが)。そして人間の息子(ではない)。すなわち彼は後悔する(のだが)。彼は言った(ことを)すなわち彼はしないか。そして彼は語った(ことを)すなわち彼は彼女を起こさない(か)。 20 何とわたしは祝福することを取った。そして彼は祝福した。そしてわたしは差し戻すことをしない。 21 わたしはヤコブの中に虚無を見ない。そして彼はイスラエルの中に困窮(を)見なかった。ヤハウェ、彼の神が彼と共に。そして王の歓呼が彼の中に。 22 エジプトから彼らを出させ続けている神〔エル〕は、彼に属する野牛の角のよう。 23 なぜならヤコブの中に占いはないからだ。そして卜占はイスラエルの中に(ないからだ)。時に応じてヤコブのために、またイスラエルのために、それは言われる。何を神〔エル〕はなしたのか。 24 何と、雌獅子のような民が起きる。そして雄獅子のように自身を持ち上げる。彼は寝ない。彼が餌食を食べ、そして諸々の刺し傷の血(を)彼が飲むまでは。 

 

【二回目の箴言】

 今回も「箴言」(18節。マシャル)という単語が用いられ、「ヤコブ」=「イスラエル」が一対一組になって繰り返されています。そして今回は神の名前は「エル」のみに絞られています。エルは「約束の地」で信じられている土着の神々の中の統領たる主神の名前です。約束の地に向かうことを阻止したいバラクに対して、土着の神エルがイスラエルを迎えているということを暗示しているのかもしれません。

箴言なので、「AはBのようである/AはBのようではない」という譬え話の要素が冒頭の19節に掲げられています。「神〔エル〕は男性ではない。すなわち彼は嘘をつく(のだが)。そして人間の息子(ではない)。すなわち彼は後悔する(のだが)。彼は言った(ことを)すなわち彼はしないか。そして彼は語った(ことを)すなわち彼は彼女を起こさない(か)。」わたしたちは神をどのような方として想像するでしょうか。年老いた男性でしょうか。原文はわたしたちのジェンダー意識・性役割を打ち砕きます。神は嘘をつく男性ではないし、神は後悔する人類一般ではない。口先ばかりで実行しない男性や、女性を立ち上がらせない人類一般のようではないのです。神は信実で、虚無を見ないで前向きであり、語る言葉を実現させ、女性に代表される、虐げられ困窮している人を復活させる方です。

このイスラエルを祝福する神に倣って、ビルアムは「何とわたしは祝福することを取った」(20節)とバラクと彼の高官たちに言います。祝福は神の行為でもあり、ビルアム自身が選び取った行為でもあります。それにより殺されるかもしれません。「何と」という驚きはビルアムの率直な思いでしょう。エジプトから約束の地へと続く旅を止めることはできません。イスラエルは雌獅子と雄獅子に譬えられています(24節)。目的を果たすまでは百獣の王の行進を誰も止めることはできないのです。一回目よりも踏み込んで、ビルアムは積極的にイスラエルを祝福します。

その昔族長ヤコブ(別名イスラエル)は、死を前に四男ユダを祝福して雄獅子と雌獅子に譬えています(創世記49章9節)。ユダは兄弟姉妹たちの中で実質的な「長男」でした。彼の子孫がダビデ王朝・南ユダ王国を建てます。ビルアムの祝福は、ヤコブの祝福と響き合っています。ヤコブと常に共にいた神がイスラエルの民と共にいます(21節)。

神は男らしくなく、民は獅子のようであるという箴言は、そのままキリスト教信仰に継承して良いと考えます。キリストは弱々しく「諸々の刺し傷」を受けた十字架のイエスです。教会はホサナという「歓呼の中」、荊冠の主を「」としてお迎えする群れです。教会はその「」を飲む儀式を毎週続けます。僕となった王に倣うためです。草食動物と共に生きる肉食獣となるためです(イザヤ書11章7節)。獅子が家畜のようにわらを食うという「神の支配」がわたしたちの目標です。僕になった王を目指して、牛になった獅子たち、小さな子どもを噛まない蛇になることが、教会という群れです。

25 そしてバラクはビルアムに向かって言った。貴男は彼を決して呪詛もするな。貴男は彼を決して祝福もするな。 26 そしてビルアムは答えた。そして彼はバラクに向かって言った。わたしは貴男に向かって語らなかったか。曰く、ヤハウェが語る全てのことを、それをわたしはなす。

 

【切り返し】

神の言葉の実現を願ったバラクは、自分の意思と神の意思の違いに慌てます。ビルアムに「呪え」と依頼すると逆に祝福するかもしれないので、「どちらもするな≒何もするな」と依頼の内容を変えます。ビルアムという天邪鬼に対する対策です。「何もするな」ということは厳密にいえば依頼の中止です。つまり「自宅に帰れ」とバラクは言いたいのです。

ビルアムはバラクよりも上手を行きます。「ヤハウェが語る全てのことを、それをわたしはなす」と今までも言っていただろうというのです(26節)。切れ味のある切り返しです。自分が依頼されたことは、神の言葉を伝言することであるとビルアムは主張します。確かに彼は最初から預言者の自覚に基づいて、神の言葉だけを語ると言っていました(22章38節、23章12節)。実際にヤハウェもそのように後押ししていました(22章20・35節)。バラクの思惑である「呪うこと」や「祝福しないこと」という二種類だけが神の意思ではありません。その他の内容であっても、すべて包み隠さず語り、すべて実行することが預言者の使命です。だから、彼はバラクによる依頼の中止を認めません。ビルアムが語り尽くすまで、神の言葉の伝言は終わらないからです。

興味深い主客の逆転がここにあります。ビルアムはアラムへと戻りません。16節のヤハウェの命令「貴男はバラクに向かって戻れ」がまだ有効です。神が「自宅に戻れ」と言うまではビルアムはバラクに向かって神の言葉を伝言し、神の命令をすべて遂行しなくてはなりません。そもそもビルアムはバラクの依頼を受諾したから来たのではなく、神の命令に応えただけだったのです。

 

【今日の小さな生き方の提案】

ビルアムの不思議な言動は、わたしたちの信仰生活に示唆を与えています。人間関係はさまざまな取引・損得勘定によって成立しています。打算がない関係は対等の親友・家族ぐらいでしょうか。とは言え、内側から衝き動かされる何かによって、まれに損得勘定を飛び越えた行為をしてしまうことがあります。どう考えても自分にとって損な結論を導くことがあるのです。人間とは本質的に自由です。ビルアムは報酬を選ばないで、なぜ祝福を選び取ったのでしょうか。自由な神に倣ったからです。自らの良心に従ったからです。現実との葛藤は当然あります。少しでも良心的行動が取れるようにと祈ります。