今日の聖書は10月の暗唱聖句です。先月も申し上げた通りキリスト教は「愛の宗教」と呼ばれることがあります。それは隣人愛・利他的な生き方をおすすめしているからです。一言で言えば、イエスのように生きなさいという教えです。今日の聖書の箇所はイエスの発言の一部です。「わたしが…」と言っているのはイエス。となれば、まさにイエスのように愛し合うことがすすめられています。
ここで引っかかるのは「イエスのように」の具体例が何かということと、愛し「合う」ということの具体的中身です。というのも、わたしたちは「お返し文化」に生きているからです。人から何かをもらった場合に、その相手に同じ程度のものをお返ししなくてはいけないということが、ここで言う「イエスのように愛し合う」ことなのかと考え込んでしまうからです。「お返し文化」は、時に面倒です。相手からのお返しを期待する親切は本当に親切なのでしょうか。お返ししなくてはいけないから、何ももらいたくないという心持ちは、なんとはなし不健全な精神状態です。愛し合うことが強制された結果、愛するということにひるむというのは、本末転倒のように思えます。
お返しを英語でpay backとも表現できます。見返りが自分に返ってくるという意味合いでしょう。それに対して、pay forwardという表現を聞いたことがあります。それは自分への見返りを期待しない親切です。
わたしが米国留学している時のことです。タッカー第一バプテスト教会という教会にお世話になりました。家賃無料のミッションハウスに住まわせてもらい、水光熱費電話代も全部教会が負担してくれました。また、「城倉家に」という指定献金が数か月に一度寄付されたりもしました。特に最初の年のクリスマスにわが家の子どもたちに山ほどのプレゼントをくださったことは今でも忘れられない思い出です。城倉家支援担当役員なる方がいてサンタさんになってある夜突然訪れてくださったのです。子どもたちは大喜び、わたしたちもありがたい気持ちでいっぱいになりました。
わたしはその方に尋ねました。「こんなに色々いただいても何もお返しができない、どうすれば良いのか」と。するとその方はちょっと真面目な顔になって、「日本に帰ってから、わたしがしたのと同じような親切を、誰かにすればよい」とおっしゃいました。これがpay forwardということです。親切してくれた直接の相手にお返しするのはpay back。直接の相手ではなく第三者に親切をするのがpay forwardです。
これは非常に広い意味で愛し「合う」ことになります。とても遠回りして何十人・何百人を経て、最初の親切のお返しが間接的になされるかもしれません。イエスのように愛し合うということは、このような広い意味で愛し「合う」ことなのだと思います。