今週の一言 2013年10月24日

10月24日はナホム書2章1-14節を学びました。

ナホム書は敵国アッシリア帝国の滅亡を喜ぶ「嘲笑歌」です。わたしたちは預言者ナホムのような「愛国者」になる必要はありません。排他的な国家主義が台頭しつつある現在、わたしたちは人の不幸を喜ぶような精神性を厳に戒めるべきでしょう。そのような視点からナホム書2章を見直してみましょう。

3節の「ヤコブ/イスラエルの誇り(膨張/肥大の意)」という発言は、民族主義・選民思想がたやすく国家主義にからめとられてしまう事態を示しています。「申命記改革」の最中、国家主義と侵略戦争は深く結びついていました。

4-11節のニネベ陥落の様子はナホムの想像です。しかし、なじみの場面です。彼はヨシヤ王が「失地回復」していく連戦連勝を国内で祝賀し続けていたからです。だから、1節の「良い知らせ」「平和の知らせ」とは、南ユダ王国にとっての福音という意味です。ここで「平和の福音」の意味内容が問われています。いったい誰のための良い知らせであり、誰の平和なのかということを吟味する必要があります。

また、ここには現在の戦争と本質的に同じものが描写されています。戦争とは武器をもって人を殺すことであり(4-6節)、しばしば戦時性暴力を伴い(8節)、必ず略奪を伴います(10節)。そしてこのような暴力は実は日常生活の延長です。常時暴力を黙認している社会は、非常時暴力を是認するのです。

12-14節は、アッシリア帝国の王室の趣味を嘲笑う部分です。宮廷貴族は獅子を飼い、好きな時に「獅子狩り」を行っていたのです。昔も今も生態系を破壊するのは人間だけです。メソポタミアにも生息していた獅子はこの時から減っていき、今やアフリカのみに押し込められてしまいました。ナホムはアッシリアの敗戦と同時に飼育者を失った獅子が、ニネベの人を襲うことを想像して嘲笑しています。この嘲笑を現代のエコロジーの観点から読み直すならば、「人為に対する自然のしっぺ返し」をも意味するでしょう。

前700-650年の「アッシリアの平和」は武力による他民族支配でした。剣を取る者は必ず剣で滅びます。「キリストの平和」は剣を鋤に打ち直す・武力によらない・互いに仕え合う交わりです。(JK)