山﨑さん転入会の証

私は妻と出会い1999年11月からAバプテスト教会に通い始めました。2000年5月にバプテスマを受け6月に結婚をしました。それ以前のイエス様とのつながりをお話しします。

実家は、B市で生花業を営み、親類一同天理教を信仰していました。それでも、インマヌエル教会の幼稚園に通い、日曜日の礼拝に姉と通ったり、クリスマスの劇に出たりしたことをなんとなく覚えています。

高校時代、ユニークな先生の倫理の授業を受けました。それは、一年間、遠藤周作の「イエスの生涯」を読むというものでした。最後は感想文を書きました。今でも印象に残っていることは、(あくまでも私の中での印象ですが)遠藤周作が人間イエスを強調していたことです。当時は、そう書いてあったというだけで何を意味するかはよく解りませんでしたが、今、聖書を読むようになってその意味を考えると、ともすれば、イエスは奇跡を行い、素晴らしい教えを説き、愛を実践し、無実の罪で十字架に架かり死に、力強い復活をとげた神の子イエスとしてとらえがちです。聖書を読めば読むほど、イエスを愛すれば愛すほど、そのように思いたくなることがあります。しかし、この本では、あくまでも、哀れで、なさけない、民衆の期待を裏切る無力な人、まさに、私たちと変わらない人を強調しています。それでも、イエスのその疲れてくぼんだ瞳の奥に映っているのは弱い人であり、患っている人、悲しみ嘆く人で、いつもその人たちに、ただ寄り添っていたといっています。そのことが、あの卑怯で情けなく弱い弟子たちがイエスの復活の後、なぜ自分の命もかえりみない主の担い手になったのかという疑問にせまることになったといっています。神はその一人子をお与えになるほど世を愛された。イエスが人として世に下り、その生涯が、ただの無力な愛の人だったことで、十字架の死と復活と昇天を目の当たりにした弟子たちが本当の神の愛に目覚め、それを実践するものに変えられた。神の愛と救いの道が示されたことになった、と記憶しています。その記憶は、今も心に残り、時々、顔をのぞかせます。

このような、経験から教会通いは苦になりませんでした。Aバプテスト教会では、毎週の礼拝を守り、約10年間のCSの中・高科の教師と8年間の執事を経験しました。

まず、CSの教師をして、準備をするために聖書を読み考える機会が与えられたことに感謝があります。サブテキストは榎本保郎先生の「旧約聖書一日一章」「新約聖書一日一章」(ともに、主婦の友社刊)を用いました。普段は1~3名程度の出席者でした。5名も集まった時は神さまの導きを喜びました。0名の時は、教師2人でその日の箇所を話したこともありました。中学生、高校生、大学生、30代40代の成人という不思議なクラスになったこともありました。「一日一章」は厳しい信仰生活を説いていることが多く、無理と思うことも多くあります。準備はするものの、その日ちょっと違う話になったことや、いろいろな話が出て、思わぬ気づきや感謝をおぼえるこがたくさんありました。父や母の死を迎えた時は、死についての内容触れたこともありました。

父や母が亡くなった時は、天理教式の葬儀をあげました。喪主は私でした。普通に悲しみの感情は浮かんだものの、その先にある魂の平安を見つめ、式の途中も主なる神に心の中でイエスのとりなしと神の救いがありますようにと、祈りました。できれば、生前に神と結ばれてほしかったものの、家族の信仰がその人を救うという聖書の言葉に励まされていました。クリスチャンで良かった。肉体の死が単なる終わりでなく、その先にある魂の平安と救いが約束されていることを実感しました。葬儀がただ悲しい、つらい、悔しいものではなかった。しかし、両親は年も年だし、何年か痴呆も進んでおり、覚悟の時間が十分にありました。もし、これが突然の自分や肉親の死だとしたら、同じ気持ちを持ち続けられる確証も保障もありません。ただ、言えることは、これからの日々の神との関係を深めていく信仰生活無くして、ありえないという事です。

礼拝のメッセージでも多くの恵みや励ましを与えられました。ただ、恵みや励ましを初めから期待して、メッセージにつまずき、失望して去っていく人も見てきました。メッセージはあくまでも、神様と自分の関係において、み旨は何か、主が伝えることは何かを、求める作業だと思うようになりました。

執事会では、他の教会員の教会組織運営のため努力を惜しまない姿や信仰の強さや情熱を知ることが出来ました。しかし、その発言から、聖書のみ言葉とあまりにもかけ離れていることを感じることや組織自体の方向性に疑問を感じることもありました。また、そんな教会生活に疲れを覚えることもありました。はじめ、それらを批判する自分がいましたが、今は、自分も含め、これら全てが、人間の弱さ、罪であり、だからこそ、キリストのとりなしと神の愛と聖霊の導きが必要なのだと思えるようになりました。

子どもたちの成長や生活を考え、私たち家族は3月に教会奉仕が一区切りつくのをきっかけに、家のそばでのバプテスト教会探しを始めました。神の導きがあるところ、子どもたちの成長があるところ、信仰の平安があるところ、いくつかのバプテスト教会を訪れました。どこでも、温かく迎えていただきました。そして、自分たちがどこでも主に遣え、何かの役に立てることを感じることができました。教会を探すということは、今までに培ったものを他の教会で活かしなさいという神の派遣であると信じています。その中で、主の導き、存在意義を一番に感じることができたのが泉バプテスト教会でした。

もし許されるなら、神のみ旨にかなうなら、イエスキリストを救い主と信じ、聖書のみ言葉にそった、神の愛に応答していける信仰生活を、この泉バプテスト教会で皆さんと共に、送っていきたいと思います。神の導きにより、私たち家族や皆さんがイエスキリストの恵みと知識において成長できるよう、心に平安がありますように、祈っていきたいと思います。よろしくお願いいたします。

2013年10月27日