今日の聖書は11月の暗唱聖句です。
この「フィリピの信徒への手紙」は福音書というイエスの伝記ではありません。パウロという人がフィリピという町にあるとある教会に宛てて出した手紙です。手紙の内容に感動したフィリピの教会の信徒たちが、写しをつくって別の教会に回覧し、さらにそれが別の教会に回覧され、とうとう礼拝の中で読まれるようになり、聖書の一部となったのです。聖書はそのようにして雪だるま式に増えて今の分量になりました。
手紙も日記も著作も、すべてその当時の状況に基づいてなされる表現・文書活動です。パウロという人の身に起こっていることを前提にしています。21世紀の日本の読者は、1世紀の地中海世界のパウロの状況を知っていると、なるほどと腑に落ちることがあります。聖書というのはその意味で行間が広い本なので、ある種の解説が必要です。
パウロという人はこの手紙を書いた時に牢獄の中にいました。当時の地中海はローマ帝国という巨大軍事国家の支配のもとにありました。その首都ローマにある牢獄です。彼は「イエスが神の子キリストだ」と信じ、布教活動を帝国内で行なっていました。当時は近代憲法がなかったので、個人の思想信条の自由は保証されていません。「ローマ皇帝を神の子として拝め」という国家による思想統制もありました。これに反してイエスが神の子ということは反国家的な思想犯だったわけです。国家の方が個人より強かったのです。
パウロは上告中でした。皇帝に向かって「自分には罪がない」と主張しており裁判が継続中でした。三権分立がないのですから、皇帝は最高裁判所長官でもあります。だから当然に、この手紙を書いた後、死刑判決が下されローマで処刑(斬首刑)されることになります。紀元後60年ごろと言われます。パウロの年齢も60歳ごろと推測されています。だから、このフィリピの信徒への手紙の背景には、死刑宣告される直前のパウロが書いたという事実があります。
そうなると、「思い煩うな」というお勧めは別の輝きを放ちます。一般的には行動の自由が制限されていると、ますます思い煩いは増えるものです。したいことができないからです。しかし、同時に死ぬ前に人間の思いというものは、何かに収斂されていく・ひとつの方向にまとまっていくことがある、これも一般的にそうです。死に際に、生き様が表れます。いったい何を大事にしてきた人生なのかがそこに出てくるでしょう。その意味でパウロは後悔のない一本筋の通った人生を過ごしたと言えるでしょう。獄中の中でさえ、信仰のゆえに殺されることを悔やんでいないからです。むしろその極限状況でなお自らの思想信条に集中しているからです。
幼稚園で聞く話は子育てばっかりという常識に少し挑戦しています。どんなに若くても一瞬一瞬を大切に生きたいと思います。いつ死んでも良い生き方ができればと願います。