11月14日はエレミヤ書7章1-11節を学びました。
祈祷会では、書かれた年代の古い順に旧約聖書の文書を学び、各文書の思想的な関連や、どのようにして聖書がふくらみ成長したのかを確認しています。たとえば「十戒」(申5:6-21//出20:2-17)は、どのような過程で現在のかたちになったのでしょうか。わたしはモーセ個人が「五書」はモーセ書き下ろしたと考えません。むしろ五書の完成はバビロン捕囚後(前6世紀)と想定し、預言者たちの言葉に十戒の原型があると想定しています。
エレミヤ書7:9の「盗み、殺し、姦淫し」という言葉は、単語レベルで十戒の第八戒「盗むな」・第六戒「殺すな」・第七戒「姦淫するな」と対応しています。エレミヤはこの預言内容をホセアから継承しています(ホセ4:2)。真の神を神として礼拝しないときに(「国家レベルの姦淫」を犯すときに)、人を人として尊重できなくなるという主張が、ホセアとエレミヤに共通しています。この預言者たちの使信が法律の形となったのが十戒なのです。ほかにもホセアの神の自己紹介定型句が十戒前文に(ホセ13:4)、ナホムが用いた「熱情の神」という表現が第二戒に採り入れられています。
エレミヤはヨシヤ王が戦死するまでは(前609年)、申命記改革を支持していました。「寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず」(5-6節)という表現や、「そうすれば・・・この所に・・・住まわせる」(3・7節)という表現は、申命記に頻出する言い方です。エレミヤが申命記改革の影響を受けていたことを示しています。しかし、その一方でエレミヤは申命記改革を批判します。「主の神殿」は「むなしい言葉」であって、そこに寄り頼むのは間違えであると喝破するからです(4・8節)。建物としての神殿を拝むことは神ならぬものを神とすることにほかならないからです。神殿に神の名が置かれ、それを唯一の礼拝所として重んじる申命記改革者たちはエレミヤを嫌います。
神殿は人を救いません(10節)。生ける霊なる神だけが救い主です。霊なる神は人間の商売に悪用されるべきではありません。神殿を「強盗の巣窟」にしてはいけないという教えは(11節)、イエスにまで引き継がれていきます(マコ11:17)。(JK)