今週の一言 2013年11月21日

11月21日はエレミヤ書8章8-13節を学びました。

ヨシヤ王の戦死後エレミヤは申命記改革と距離を置くことになりました。「上からの改革」によって真にイスラエルが神の民として生まれ変わるのか疑問に感じたからです。たとえば同世代人のナホムは敵大国アッシリアの滅亡を、自国の「平和」と呼んで喝采を送りました。敵からの軍事的脅威がないことが「平和」と言えるのでしょうか。

申命記改革は、申命記の原型にあたるものを「主の律法」(8節)という最高法規にして、それを基準に善悪を判断していきました。「国の民」という政治グループ(「書記」8節)、特にその中の知識階級が主導して(「賢者」「預言者」「祭司」8-10節)、全国民を総動員しつつ(10節)行政改革・宗教改革を断行したのです。そこでは、政教一致した中央集権の行政国家を作り、領土を軍事的に拡大することが「神を愛する行為」とみなされました。

エレミヤは改革の指導者ヨシヤ王の戦死をきっかけに申命記改革に批判的になります。いわば内部告発をするようになります。本当の意味で「神を愛する行為」を南ユダ王国がなしているのかを問うようになったからです。

「主の律法」をふりかざして「利をむさぼり」「欺く」(10節)ならば、隣人を愛することが実現していない。それで神を愛すると言えるのか。軍事占領による安全保障を「平和」と言って良いのか。互いの人権が脅かされているならば、仮に戦争状態になくても「平和がない」と言うべきなのではないか(11節)。改革という美名のもと、実は恥ずかしいことを公然と行っているだけなのではないか(12節)。エレミヤの舌鋒は鋭いものです。本当の意味で神を愛すること、この地上に平和を実現することの内実が問われています。政教一致した軍国主義国家には、平和の実現はできないものです。大日本帝国しかり。

ヨシヤ王の死後、国の民はヨアハズを王に選任しますが、大国エジプトはヨアハズを斥けヨヤキムにすげ替えます。ヨヤキム王はエジプトの傀儡です。この時点で国の民は政治権力や経済的な力を奪われ申命記改革は頓挫します(王下23:28-37)。エレミヤの透き通った目は、南のエジプトによる圧迫だけではなく、北の新興国新バビロニア帝国の台頭を見抜いています(16節)。(JK)