12月26日はエレミヤ書31章15-17節・27-34節を学びました。
第一次バビロン捕囚(前598年)の後、エレミヤは第二次バビロン捕囚という徹底的な破局が訪れることを預言しました(32:3以下)。その一方で、先週も確認したとおり、彼はバビロン捕囚からの解放・捕囚民の帰還をも見据えています。抜き・壊す神が、植え・建てる神でもあります(28節)。
31:15はマタイ2:18に引用されている有名な言葉です。しかし、マタイの文脈(ヘロデ王による幼児虐殺)とは反対に、元来のエレミヤ書においては未来の希望を語る文脈です(16-17節)。新約記者による恣意的な引用には少し注意が必要です。
27節はホセアの影響を伺わせます(ホセ2:20-25)。人間だけではなく全被造物の恢復という主題は、放射性物質ほか「公害」に苦しむ今日の課題の先取りです。この主題は、洪水物語とも関係しています(創6-9章)。
29節は「因果応報」を否定する思想です。エゼキエルも同じ格言を引いていることは両者が同時代人であることを証します(エゼ18:2)。
エレミヤは「新しい契約=新約」という言葉を用いた最初の人です(31節)。パウロおよびその弟子であるルカは、エレミヤの「新しい契約」を最後の晩餐におけるイエスの言葉として記しました。ヘブライ語で契約締結を「契約を切る」と表現します。日本語の「千切る=契る」と似た表現です。この熟語は、契約の際に犠牲獣が裂かれたことに由来すると言われます(創15章)。新しい契約を「契る」ということと、イエス・キリストが十字架で「裂かれた」ということと、契約の更新式として主の晩餐で「パンを割くこと」とは、深く結びついています。
33節にある「律法」は、「教え」ぐらいの広い翻訳・解釈が良いと思います。いまだ「モーセ五書=律法」は完成していないからです。いずれにせよ、大人も子どもも、社会的身分も関係なく、すべての者の心に主の意思が刻印され、霊である神と人格的に交わる時が来るということが趣旨の預言です。これは因果律を超えた無条件の赦しに基づく恵みです(33-34節)。
エレミヤの預言は次の歴史を拓きました。わたしたちも破局を警告・経験しつつ、そこをくぐり抜けて起こる出来事に希望を持って歩んで行きましょう。(JK)