今週の一言 2014年1月9日

 1月9日はエレミヤ書38章1-13節を学びました。

 この箇所は現在日本社会における「行政国家現象」、つまり、行政機関への権力一極集中の問題性を考える際に示唆深いものです。

 新バビロニア帝国が南ユダ王国の首都エルサレムを包囲し、破局(前587年の第二次バビロン捕囚)までのカウントダウンが始まりました。その時、エレミヤは身柄を拘束され軟禁状態にされていました。彼が自国の敗戦を予告し、早めに降伏したほうが良いと勧告する「非国民」だったからです(2-3節)。

 エレミヤの発言に反発し言論封殺を試みたのは、「役人たち」(4・6節)だったと聖書は記します。形式的には王が立法・行政・司法の長にいるはずですが、実質的には行政官たちが国を牛耳っていたのです。ゼデキヤ王自身が、「王であっても、お前たち(役人たち)の意に反しては何もできない」(5節)と認めています。どこかの国で見たような風景です。

 そこで役人たちは裁判も開かずに、エレミヤを水溜に投げ込み拷問・私刑を強行します(6節)。それは王が「門の広場に座し」(7節)、おそらく裁判に携わっている最中の出来事でした。公の裁判が開かれているさなか、秘密裏に裁判抜きで行政権力による拷問が行われていたのです。特定秘密保護法が用いられる社会の姿が透けて見える気がします。

 さてエレミヤはクシュ人の宦官エベド・メレクという王宮の行政官によって救われます(8節以下)。クシュ人とはエチオピア人のことです。アフリカの黒人、ユダヤ人にとっては異邦人です。宦官とは、古代社会において生殖器を自ら切り落とすことによって、王宮における立身出世を図った男性たちのことです。色々な意味で南ユダ王国を透明な目で見ていたがゆえに、エレミヤの予告・勧告に納得していたのだと推測されます。エベド・メレクの「エレミヤを救うべし」という良心的な進言は王を動かし、エレミヤは拷問から逃れました(10節以下)。

行政官は広い裁量を持っています。責任感と意志さえあれば良心的な行動を取れるはずです。市民が行政官の良心に働きかけることが必要です。(JK)