2月13日の祈り会ではオバデヤ書を学びました。オバデヤ書は旧約聖書中最も小さな文書です。21節しかありません。その主な内容は、南ユダ王国の南隣のエドム王国への批判です。外国を嘲笑する内容という点では、ナホム書と類似の主題です。また1-9節は、エレミヤ書49章と並行する内容です。
オバデヤ書の背景には第二次バビロン捕囚(前587年)の際に、南ユダ王国をどさくさまぎれに侵略したエドム王国の振る舞いがあります。ユダとエドムは親戚の国です。血縁的に近いということを両国共に知っていました。それは双子の兄弟であるヤコブとエサウにたとえられます。その近い親戚が困っている時に、傍観していたこと、さらにはバビロン軍と一緒に侵攻したことに対する恨みがオバデヤ書には綴られています。
創世記25章以降にはヤコブとエサウという双子の兄弟の相克・葛藤が描かれています。創世記を含むモーセ五書が編纂された年代は(諸説ありますが)前6-5世紀、バビロン捕囚後と考えられます。つまり、創世記はオバデヤ書を知っていて書かれています。さらに言えば、南ユダ王国とエドム王国との葛藤の原因を説明するために、ヤコブとエサウとの物語が創作され、当時の読者に喜んで読まれたのです。このような物語のことを「原因譚(げんいんたん)」と呼びます。聖書には原因譚が数多く残されています。族長物語と王国の歴史は、その類似を楽しんで重ね合わせて読むと立体的になります。
エドムという国は知のメッカだったようです(8-9節)。それゆえの「傲慢」(3節)がここで指弾されています。知識偏重の現代社会への批判でもあります。
12節「兄弟」は原文では「あなたの兄弟」です。自分の双子の兄弟である南ユダ王国の苦境に、素知らぬ顔で傍観する「不作為の罪」と、勝ち馬に乗る行為が批判されています。「あなたの兄弟はどこにいるのか」(創4:9)、「あなたも行って隣人となりなさい」(ルカ10:37)という言葉が共鳴しています。
11-14節には「日(時)」という言葉が繰り返し用いられ強調されています。兄弟/隣人の苦境の際に、瞬間的に体が手助けのために動くかどうか、隣人愛のための瞬発力の有無が問われています。(JK)