2月20日の祈り会ではエゼキエル書1章1-14節を学びました。
預言者エゼキエルはエレミヤにとって年下の同時代人です。彼はエルサレム神殿に仕える上級祭司の家柄の出です。エレミヤが偽預言者たちと対決していた時に、若きエゼキエルは老預言者エレミヤを迫害する側にいたと推測されます。このあたり、ステファノとサウロに似た関係です(使徒6-8章)。
身分の高いエゼキエルは、前598年に起こった「第一次バビロン捕囚」の際にバビロンへ強制連行されます。エルサレムからバビロンの道はエゼキエルにとって悔い改め(生き方の方向転換)の旅でした。論敵エレミヤの語る言葉が真実の預言であることを思い知る一歩一歩だったからです。この経験がエゼキエルの原体験です。エゼキエル書には多くの日付がこまめに記されていますが、その基準となる年は常に前598年なのです(2節)。
捕囚の地でエゼキエルは預言者としての召命を受けます(1-3章)。彼の召命記事は、言葉では言い表しえない神の姿を見たという点で、イザヤの召命記事に類比されます(イザ6章)。「四つの生き物/顔/翼」が言わんとすることは、四つの方向どこへでも思いのままに動くことのできる神のあり様です。「火」や「光」、「稲妻」は神の顕現を示す表現です(4・13・14節。なお出3章、19章なども参照)。「主の栄光」とは、見えざる神がそこに居たということを婉曲に示す術語なのです(28節)。「風/霊」(4・12節)とも言われる神の本質は「自由」です。
エゼキエルをはじめとする捕囚民は信仰の危機に陥っていました。神がそこに住むとされた「神殿(直訳「主の家」)」のゆえに「不落神話」のあった首都エルサレムが、陥落したのです。新バビロニア帝国の神々に、南ユダ王国の主なる神は敗れたのでしょうか。一般に、戦争が国家神同士の戦いであると考えられていた時代です。「主は殺されたのか」「殺された神をどのように信じえようか」。
どんなところにも移動できる霊の神への信仰は、この信仰の危機を乗り越えさせる「神学」でした。神はエルサレムにもバビロンにもいらっしゃるからです。エゼキエルは「旧約のカルバン(宗教改革者・組織神学者)」と呼ばれます。彼の指導のもとバビロンの地で『モーセ五書』が編纂されていきます。(JK)