今週の一言 2014年3月6日

3月6日の祈り会ではエゼキエル書8章1-18節を学びました。

預言者エゼキエルは牧会者でした。捕囚民の指導者「ユダの長老たち」(1節)の相談を自宅で聞き、必要な助言を与えていました。指導者の指導者、最高顧問という位置づけです。エゼキエルの自宅で長老たちは彼の見た幻・彼の聞いた神の言葉を、座ってじっと聞き入っていました。ここに教会の一つの原風景があります。ちなみに、バビロン捕囚の地で「ユダヤ人」という呼称が生まれました。ユダの人々という意味です。

8章には不思議な現象が記されています。霊である神の手がエゼキエルの髪の毛を掴んでバビロンからエルサレムまで運んだというのです(1-3節)。この信じがたい表現の意味するところは、エゼキエルがエルサレムの状況を手に取るように把握できる情報網を持っていたということでしょう。「壁に穴をうがちのぞき見する行為」(7-9節)は、そのことを示唆します。彼はバビロンに居ながらにしてエルサレムの状況をよく知ることができました。

その状況とはバビロンの傀儡政権が行っている偶像礼拝の数々です(10-16節)。特に注目すべきは、太陽崇拝とあらゆる地を這うものと獣という偶像神です。この批判は、天地創造の記事と呼応しています。バビロンなど周辺世界では神として拝まれていた太陽や月、星は、第四日目に創られた被造物に過ぎません(創1:14-19)。地を這うものと獣も第六日目に創られた被造物です(同1:24-31)。創造主である神が森羅万象の上にあるということが『モーセ五書』の冒頭に置かれているのは、捕囚の地における「抵抗の神学」の発露なのです。

神ならぬものを神として拝む時に、隣人を個人として尊重できなくなるという事態を、わたしたちは戦時中の政教一致した天皇制軍国主義に対する反省から学んでいます。狭い意味の他宗教批判としての偶像礼拝が問題なのではなく、国家が宗教的に中立でないことが問題であり、個人の良心を侵すかたちで崇拝を強要するから問題なのです。エゼキエルが、エルサレムの権力中枢に居る者たちの宗教行為を問題としている所以です。彼らはこの地を不法(暴力)で満たしています(17節)。