5月1日の祈り会では創世記2章18-25節を学びました。
聖書という本は常に時代に合わせて解釈されるべき「正典」です。ヤハウィスト(J集団)が書いた天地創造物語(2章)もまた、「今日のわたしたちにとってどのような意義があるか」という問いをもって読み解くべきです。現代社会に欠くことのできない視座は「ジェンダーの視点」です。ジェンダーとは、社会的につくりだされた「男らしさ/女らしさ」です。個人を抑圧する「~らしさ」なるもの一般をわたしたちは「自由の福音」によって批判する必要があります。
パウロは「男が先に創造されたから女より優れている」と創2章を解釈しました(Ⅰコリ11章)。パウロの性差別を批判する読み方を提示する必要があります。男性と女性は同時に発生したと解しえます。なぜなら、女性の創造前には、性別のない「原人間(アダム)」だけが存在したからです。
「彼に合う助ける者」(18節)もキリスト教の解釈の歴史の中で、女性劣位の根拠とされてきました。しかし「助ける者」の原意に助手的・補助者的な意味はありません。ここはむしろ「対等に向き合う者」と解すのが素直です。
「離婚は宗教的な罪」と解釈し、さらに女性の人権を抑圧していくことに、キリスト教は加担してきました。どんな暴力夫からも妻が逃げられなくなるからです。その根拠に「二人は一体」(24節)という文言があり、その文言に対するイエスの解釈があります。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マコ10:9)。
イエスは男性だけが離縁権を持っている律法を批判しました。物として扱われている女性の不安定な地位を問題にし、男性の権利の濫用を戒める趣旨で「夫婦間の契約に対等に誠実であれ」と創2:24を解釈したのです。わたしたちも、イエスの批判精神を汲んで時代に合った解釈をすべきです。つまり男性が権利を濫用して離縁権を別の形で再び振りかざすことは本末転倒なのです。
むしろ「父母を離れて」(24節)に着目したいものです。ここには家父長制・奴隷の家から脱出したアブラハム・サラ・ロトたち家族のあり方への評価があります。バビロン捕囚からの解放は、「~らしさ」からの自由を得る旅なのです。それが出エジプトの原型となります。(JK)