6月5日の祈り会では創世記9章20-27節を学びました。
洪水後の物語は、洪水が天地創造のやり直しであり、文明というものの持つ両義性を教えています。
ノアは「農夫(直訳「土の人」)」となります(20節)。これはアダムやカインのように土に仕える生き方が人間の基本であることを示します。「土を耕す(2:15・4:2)」の直訳は、「土に仕える/土を拝する」です。土の実りは酒の発明を生み、おいしく楽しい食事と共に、泥酔の危険をももたらしました。
洪水物語において義人であったノアが、酔っ払って裸をさらす、だらしのない父親として描かれます(21節)。人間というものは両義的な存在です。ノアは自分の不始末を末息子に八つ当たりさえしています(24-25節)。
そもそも裸であるということも両義的です。聖書は裸を、お互いの信頼に根差す心開かれた関係とも語ります(3章)。その一方で、自分自身を無防備に明かす愚かさとも語っています。裸の関係は人格的に知り合うという意味では良いことですが、すべての人は「人格上の秘密」を保つべきでもあります。
さて、この箇所はいわゆる「白人の神学」の根拠となる聖句です。呪われたハムをアフリカ系の黒人種の先祖とみなし、祝されたヤフェトをヨーロッパ系の白人種の先祖とみなし、白人が黒人を奴隷として搾取して良いという思想を、白人の神学と呼びます(特に27節)。
今日的には、この白人の神学は当然斥けられるべき思想です。その批判の源泉には、①20世紀に生まれた「人権の神学」と、②18世紀以来の「批評的聖書学」がなりえます。①は抑圧された民(たとえば黒人や女性)の視点からキリスト教を捉え直す営みです。人権の神学によれば、どんな人も聖書を隣人の人権を抑圧する理由とすることは許されません。②は聖書が書かれた時点の事情を説明することで反知性主義・非学問的主張を牽制する営みです。批評的聖書学によれば、この物語は「なぜセムの子孫イスラエル人とカナン人が葛藤しているのかの原因を、イスラエル人の立場から説明する物語」です(原因譚)。
セムという名前にも隠れたメッセージがあります。セムは「名前」と「場所」という単語と同じ綴りです。同じ場所を共有し、名前を呼び合う人格的交わりに、新しく作り直された人々は招かれています。(JK)