6/7土曜参観のときの園長のお話

本日は足元の悪い中、いづみ幼稚園の土曜参観にお越しいただきありがとうございました。園長兼牧師の城倉と申します。日頃、まとまったお話をする機会のない保護者の方々に向けて、この際にいづみ幼稚園とキリスト教との関係について一言申し上げます。

いづみ幼稚園は宗教法人立(泉バプテスト教会附属)の幼稚園です。学校教育法の102条に規定されているため、このような形態の幼稚園を「102条園」と呼びます。学校法人よりも特色ある保育がしやすい運営形態をとっています。いづみ幼稚園の特色は言うまでもなくキリスト教主義の保育です。

さて、常々思うことですが、「教育」というものと「宗教」というものは、ある意味で相対立する原理をそれぞれ内に持っているのではないでしょうか。教育は人の成長のための行為です。その人の可能性を引き出し、人格の完成を目指して引き上げる行為です。教育の前提にある原理は、「その人の現状に未だ欠けがあり課題がある」というものです。それだから、教師は励まして「がんばれ、がんばれ」と言って、背中を押すのです。竹馬の習得においてもそれが当てはまります。

このような「励まし」に対して、宗教というもの、特にキリスト教の持つ原理は、その人に対する全肯定です。「あなたはそのままで良い」というものです。これ以上赦されたらその人がダメになってしまうのではないかと疑われるほどに、神が肯定していると観念するわけです。信仰とはそういうものです。そこに慰めを感じ、人は自己肯定感を得ます。この「慰め」の原理のみを推し進めるなら教育は不要となります。そのままで良いということは成長しなくて良いということに直結しうるからです。

ここで新約聖書の一つの単語を紹介いたします。それは「パラカレオー」という動詞です。この言葉の意味は「励ます」と「慰める」というものです。ギリシャ語においては、励ましと慰めは同語です。一つのパラカレオーが同時に、人を励まし慰めるのです。いづみの保育の特色は、この同時性にあると考えてください。この同時性こそ人の成長や人格の完成に資するとわたしは思います。

教員たちが「もっと、がんばれ」と励ます時には、同時に深いところで「あなたはそのままですばらしい」とも慰めていると考えてください。また逆に「今日は大変だったね」と慰める時には、広い意味で「明日はもう少しだけがんばろう」と励ましていると考えてください。わたしたちは、いわゆる「お上品」なこどもを育てることを目指していません。そうではなく、この励ましと慰めの同時性を基盤にして、自己肯定感を持ちつつそれぞれに相応しい成長を遂げることを願っています。

キリスト教への改宗を勧めるわけでもありません。しかし、どうぞ興味のある方は日曜日の泉教会の礼拝にもいつでもお越しください。本日はありがとうございました。