6/18マナクラブ

140618マナクラブ

今日はマタイによる福音書5章1-12節についてお話します。三つの部分に分かれています。1-2節は序にあたり、3-10節が本体、11-12節が結びです。新共同訳聖書の小見出しに「山上の説教」とあります。イエスが山の上で長い教えを説かれた(5-7章)出来事を、このように呼びならわしています。

説教者はイエス、聴衆は大勢の群衆です。特に、病人を連れてきた人々、病気を持っている人々、癒された人々です(4:25)。この人たちはそのままついてきて弟子になったのです(5:1)。「弟子=群衆」という図式がここにはあります(7:28参照)。マタイという人は几帳面に、伝記を編集する癖を持っています。物語が1-4章まであれば、次には説教が5-7章、さらに次には物語という具合に「縞々」にマタイ福音書は織りなされています。この編集のうまみは、聴衆を特定できるところにあります。同じ話でも聴衆が異なれば別の出来事がおこりえます。この特定の人々に語る「幸い」という呼びかけに特定の意味があります。わたしたちも聴衆に感情移入して読むことが求められます。聖書を読むことも大型絵本読みも基本は同じです。

3-10節には、八回「幸いである」という言葉が登場します。そこで「八福の教え」などとも呼ばれます。ここには強烈な逆説があります。イエスの教えというものは全般的にそういう特徴を持ちます。これは知っていて得する情報です。逆説と言うのは、一見すると矛盾・誤解しているように思えるけれども、しかしよく考えてみると皮肉なかたちで真理を言い抜いているというような言い方です。

一般に貧しい人は不幸です。ですから「貧しい人は幸い」は、逆説的な言い方でしかありえません。「悲しむ人」「飢え渇く人」「義のために迫害される人」についても同じです。この四つの幸いは逆説的な意味においてしか幸福と言いえないものです。さらに「柔和な人」もこのグループに入ります。柔和という言葉は、性格が柔らかいという意味ではありません。「腰を屈ませられている人」という意味が原意です。屈従され、抑圧されている人のことを柔和な人というように聖書では表現します。合計五つの逆説的幸福が語られています。

聴衆について考えれば、このような逆説も意味をなします。ここにいる人々は、貧しく・悲しみ・屈従させられ・飢え渇く人々です。そしてイエスの弟子になることによって迫害されることになる人々です。この状況は世間的には不幸です。しかし、その不幸のゆえにイエスに出会い、イエスと面と向かうことができたのですから、考えようによっては幸せなことです。イエスの周りに座ることで「天の国(神の国)」に居ることを実感できるからです。天の国を所有することは「地を受け継ぐ」と言い換えられます。小作農・失業者が、イエスと旅をすると天の国を地上で相続していることになるからです。また、イエスの周りに座ると食事を分かち合えます。少ない食べ物でも友と分かち合うときに満腹となります。これこそ天の国の食卓です。教会はこのイエスの運動を受け継ぎ、天の国を再現する交わりを地上につくろうとしています。礼拝(説教・主の晩餐)を中心にした交わりは、世界で小さくされている人々を逆説的に幸いと呼びかけるために行っています。この人たちは世間からは冷たくされるということが運命づけられています。このことについては結びでもう一度述べます。10-12節が連続している面もあるからです。

さて、残りの三つの幸いは言わば「順接的な素直な訓令」です。憐れみ深いこと、心が清いことは単純に美徳です。そして、この二つの形容詞は、「平和を実現する/造りだす」という動詞の現在分詞とかかわりを持っています。このような人になろうと努力し続けることが幸いなのです。憐れみ深いということは、共感できるということです。その人たちは憐れみを受けるとあるのですから、共感は相互作用です。ヘイトスピーチなど、他人を貶める言動に歯止めをかけるのは「共感」です。そのためには透き通った目を持っていなくてはいけません。どんな人をも偏見なく公平に見る目、それこそ「心の清い」状態です。朝鮮半島の人も中国の人も、ホームレスの人も、しょうがいを持った人も、同じ人間・人の子であり、神の似姿です。そこに神を見ることが必要です。共感と透明な目が平和を造ることへと向かう前提です。ここで言う平和は、誰かを犠牲にして得られる一部の人の平和ではなく、誰をも損なわない、多様な人々を包含する寛容な一つの社会です。それこそ、聖書の語る平和であり、それは常に現在進行形で追い求められ、希求され続けるべき平和です。

教会は平和づくりの共同体です。反戦教育だけでは戦争の悲惨しか学べません。反戦と同時に平和の造り方をも学ぶべきです。どうすれば紛争は解決できるのか。子どもたちが毎日悪戦苦闘し試行錯誤しているように、大人も同じ努力をしなくてはいけません。子育ては瞬発力を要する作業です。瞬時に、駄目なこと・良いことを判断しなくてはなりません。瞬時に友だち関係を把握して、適切な妥協案や代替案を提示しなくてはいけません。その時わたしたちは平和づくりの実地研修をしています。いきなり殴りかかる子どもというのはほとんどいません。原因を除去する予防が可能です。仮に殴られても、決して殴り返せと子どもに教育しないでしょう。むしろ、「殴ってはいけない」と殴った子どもに穏やかに毅然として教え諭すのがほとんどの場合に当てはまります。

教会は、今まで申し上げた逆説的幸いを語り、また徹底した平和主義を順接的に語るので、世間と対立することが、古代からありました。キリスト信仰は身分制度や軍事的支配をよしとする権力からは嫌われるものです。豊臣政権や江戸幕府がキリシタン禁制を敷いたのも同じ理由です。教会が「義」と信じて行うことは、世間では不正義・非常識であることが多々あります。11-12節の結び部分は、そのような信徒を励ます言葉です。

ここでは迫害が一つの証明書扱いされています。世間に冷たくされるキリスト者や教会こそが本物であるという主張です。預言者たちと同じということは真の信者ということでしょう。しかし、「喜べ」と言われても、ちょっと困ります。現代においては、このような信教の自由を侵害することがない社会をつくることの方が重要です。わたしは「殉教の神学」には反対です。