ヨハネ福音書の著者・編集者らは誰か、いつ・どこで成立したのか、個々の聖句を解釈する際に、これらの歴史的背景を加味する作業は重要です。
多くの学者は成立年代を紀元後90年以降とします。その論拠は、公式にキリスト者がユダヤ教会堂から追放されたのがこの年だからというものです。そしてヨハネ9:22・12:42・16:2の記述は、「90年の会堂追放」という事実を知っていて書いていると説明されます。しかしこれは論拠薄弱です。イエスの生前や教会誕生直後においても信者は会堂追放されることがあったからです。
成立年代への問いは著者が誰かという問いとも直結します。教界では紀元後二世紀に初めて「ヨハネ福音書の著者は十二弟子の一人であるヨハネ」と言われ始めました。そして、「イエスの愛する弟子(13:23)=もう一人の弟子(18:15・20:2)=ヨハネ」とみなされたのです。多くの学者はヨハネ著者説を否定します。しかし、「もう一人の弟子」とは誰かということや、この福音書が細かい史実に詳しいということなどを考えると、生前のイエスを知りエルサレムのユダヤ教事情に詳しい人物が著者ではないかという推論は、決して筋違いではありません。なお著者以外の加筆者が存在することは、他の福音書の場合と同様に明らかです。おそらくその人/集団は「ヨハネの手紙一」の著者・編集者です。
田川建三のようにマルコの成立年代を50年代に想定するなら、ヨハネの成立年代もその直後から可能です。それならばイエスの直弟子だったヨハネも生きています。ヨハネが著者であることを否定する論拠は、ヨハネ福音書が持つ「反ペトロ・反十二弟子」の姿勢です。確かにヨハネをペトロと常に一心同体と考えるならば否定説は説得力を持ちます(使3-4章、ガラ2:9)。しかし『教会史』を著したエウセビオスは、ヨハネがペトロと別行動をとって小アジア半島で宣教をし、最後はエフェソで亡くなったと報じています。
ガリラヤ出身のヨハネが、得意ではないギリシャ語で一所懸命にマルコの向うを張った福音書を、ギリシャ語圏であるエフェソで書いたという推測も、悪くないでしょう。ヨハネはフィリポのサマリア伝道に影響され(使8章)、民族主義者の兄ヤコブと距離を取り、エルサレム教会の権力者イエスの弟ヤコブから離れて、ユダヤ教の会堂が多い小アジアで、パウロの神学思想をも反論しつつ、独自の福音書を用いて独特な教会形成をしたと思います。(JK)