9月11日の祈り会で創世記18章1-15節を学びました。
主の晩餐式について考える際に、イエスの行った食卓すべてを参考にすることは正しい路線です。最後の晩餐だけではなく、復活のイエスとの朝食(ヨハ21:12-13)や夕食(ルカ24:30)、大勢の群衆とパンと魚を分かち合うこと(ヨハ6:1-15他)、徴税人や「罪人」と呼ばれた人々との食事などなど(マコ2:13-17、同14:3)、福音書のイエスは「食卓の主」として描かれているからです。
論点をさらに広げるならば、旧約聖書に登場する様々な人物たちの食卓の記事もまた、主の晩餐について深い示唆を与えます(創26:30、同31:54、出18:12、同24:11、サム上9:24、同16:5)。実際さまざまな喩え話において、イエス自身も先祖たちの食卓を意識していると推測できるのです(ルカ13:22-30、同14:7-24、同15:11-32、16:19-31)。
アブラハムとサラは三人の旅人を心から歓待しました。遊牧民たちの伝統によると、見ず知らずの旅人のために水や食事や休息を用意することは、一種義務付けられていたとも言われます。夫妻は、当時の常識をもはるかに超えた最上の料理を振舞いました。後に三人の旅人のうちの一人が「主(ヤハウェ)」、すなわち神であることが判明しますが、おそらく最初はそのことを知らずに見ず知らずの人をもてなしています。
ここにわたしたちの行うべき主の晩餐式についてのヒントがあります。
第一に主の晩餐式は見ず知らずの人のためのものです。多くの人は世間の生活にくたびれ果てて、心のオアシスを求めて教会にやっとの思いで来るのだと思います。その人たちに「ようこそ」と手を広げ、「共に食卓を囲みましょう」と招くことが大切です。
第二に主の晩餐式は、「このひとかけらのパンと一杯のぶどう酒ででさえも、飢え渇きをしのぎたい」と思う、貧しい人のためのものです。路上生活者だけではなく、子どもや若者の貧困・女性ひとり親の貧困は、この国の課題です。その人たちと共に生きるようにと悔改め(生き方の方向転換)が起こされる食卓こそ、わたしたちにとって望ましいものです。
「この最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタ25:40)。食卓の主は最も小さな会衆の一人になりうる方です。 JK