マタイ5:13-16(新約6ページ)
「山上の説教」の続きです。
パレスチナにおいて塩は岩塩から製造されていたそうです。有名な死海近辺も岩塩が多くある場所です。岩塩の場合、塩気が抜けてしまうことがしばしばあったとされます。その自然現象が「塩」のたとえの前提にあります。塩気を失う岩塩はただの土なので、人々に踏みつけられるだけの存在となるということです。
福音書は四つありますが、最古の福音書はマルコです。マタイはマルコを真似して福音書を書きました。マルコにも似たような言葉が残されています。マルコ9:50(80ページ)というところです。そこには「自分の内に塩気を持ちなさい」という命令があります。マタイはその言葉を発展させて、「あなたがたは地の塩である」と言います。「塩を持て」という「do」ではなく、「塩である」という「be」になっていることが重要です。
塩の特徴は何でしょうか。塩はいのちを保つための必須の栄養素です。また、調味料としても防腐剤としても重要です。このことは、少数者のたとえでもあります。少量の肉に大量の塩ではなく、大量の肉に少量の塩という組み合わせが普通だからです。社会に味付けをし、腐敗を防ぐ少数者が必要です。そして塩は水に溶けやすく見た目に塩水と真水は区別しにくいものです。
「地」とは世界のたとえです。社会の中の少数者、社会の中の目立たない個人。しかしそうではあっても一味違う人である、世界に必要な一人ひとりであるということを、イエスは集まった群衆に言っています。このことは、聞いていた人を慰め励ます内容でした。なぜかといえば、イエスは社会の中で目立たない存在、抹殺されかけている人々、踏みつけにされている人々に向かって、「あなたたちが地の塩である」と宣言したからです。がんばって塩になれと言わないところがミソです。とても宗教的な言い方です。
同じ趣旨のたとえをイエスは続けます。「あなたたちは世の光である」と言うのです。「世」というのはもちろん世界のたとえです。では光とは何なのでしょう。
世の光という例え話の説明として、「山の上にある町は隠れることができない」という格言・警句があります。謙遜してもだめ、卑下してもだめ、全ての人はすでに目立っているというのです。「世の光である」は「地の塩である」ということと、「である」という部分で一緒です。しかし、目立った個人であるという点で異なります。
世の光という例え話の説明として「誰も升の下に燭台を置かないものだ」という格言・警句があります。このたとえも示唆深いものです。世の光であるということに気づかずに、世の光性を自ら失ってしまう皮肉な現象が起こりうるということを教えているからです。すでにそうであるということも自明のことではなく、不断の努力によって「成っていく」ものなのです。神学者のブルトマンという人は「すでにそうである者になれ」と語りました。含蓄のある言葉です。人権というものは普遍的なものであり、すべての人にすでに与えられていると観念されますが、その一方で一人ひとりの不断の努力によって勝ち取られ続けていくものでもあります。権利にあぐらをかくと奪われるのです。
光の特徴はどのようなものでしょうか。光には良いイメージがあると思います。光合成のことを考えると、すべてのいのちにとって必要なものです。人間にとっては暗い場所でこそ必要です。夜の道や、室内などです。そして暗ければ暗いほど目立つという特徴もあります。キャンドルサービスなどでお分かりの通りです。
社会の暗さが目立つ時に、世の光が際立ちます。暗くなっている人々の間でこそ、光は必要とされています。「すでに光なのだから隠しなさんな」とイエスは説きます。とても教育的な言い方です。また、人前で自分を出すことに価値があるとも考えられます。文字通り公に発揮すること・開花することが、人間らしいあり方であるということです。一人の明るさが世界という家全体を照らすという大口にわたしたちの希望があります。
さて「天の父」という言葉にも説明が必要です。天国が実在するかどうかという議論、実在するならばどこにあるのかという議論は不毛です。そんなものは証明できないからです。また、神というものが人間社会の父親と類似の関係にあると捉えるのも危険です。家父長制の強い社会において、父親というのは抑圧装置だからです。父親から虐待を受けた人が神を父と呼ぶことに拒否反応を示すのも当然です。
天というものは「理想の世界」と考えてください。神と常に共にいるという状態を天に居ると観念します。イエスの別のたとえ話によれば、天は神を中心にした食卓であり、参加者一同は互いに給仕し合う平等な交わりをつくっています。食卓の中心にいる父は、ふんぞりかえっている、お尻に根の生えた、横のものを縦にすることもしないようなオヤジではなく、みなに仕える親しみやすいアッバ(お父ちゃん)です。この食卓は性役割分担を超えています。ジェンダーフリーな食卓です。だから地上でもこの「天」は作り出すことができるのです。
天に集められている人は「すでにそうである者になっている人/なろうとしている人」です。それをもって「立派な行い」というのでしょう。
マナクラブ後に、運動会の練習を見守るひとびと。