9月25日の祈り会で創世記19章1-11節を学びました。
アブラハム・サラ夫妻のもてなしと主の晩餐とを重ね合わせることを提案しました(18:1-8)。同じことがロトのもてなしにもあてはまります(19:1-3)。特にロトが「酵母を入れないパンを焼いて食事を供し」ていることは注目に値します。共観福音書が最後の晩餐を、除酵祭の食事として報告しているからです。
ソドムという町の滅亡記事は、キリスト教史の中で同性愛者差別を助長するために最大限利用され、今日に至っています。「ソドムの住民は同性愛を行っていたから神に滅ぼされた」という主張を根拠にして、「同性愛者は神に対して罪を犯している」というわけです。同性愛者を含む性的少数者(LGBT)に対する差別を認めることは、互いに尊重し合うという「神の国のルール」に反します。それだから伝統的解釈を批判的に検討し代替案を示す責任が、現代を生きるわたしたちにはあります。
レビ18:22の同性愛禁止命令は、その他時代遅れになった命令と共に守る必要がありません。もし一言一句すべての律法を守る必要があるなら、わたしたちは土用丑の日の鰻も食べられなくなってしまうでしょう(レビ11:10)。同様に、具体的事情を背景にしたローマの教会やコリントの教会に宛てたパウロの手紙についても気にする必要がありません(ローマ1:27、Ⅰコリ6:9)。
ではソドムの住民の罪/悪とは何なのでしょうか。「なぶりものにする」(5節)は「知る」という単語です。この文脈では夫婦間の性交渉の意味ではありません。古代西アジアの戦争において、勝者が敗残兵や捕虜の男性を「レイプ」する習慣がありました。この性暴力は戦勝と支配の象徴行為だったのです。
19章には見知らぬ旅人を屋内にもてなすロトと、その人たちを暴力的に支配しようとする住民たちの対比があります。彼らの暴力の根っこに民族主義があり、元々よそ者だったロトへの憎しみがあります(9節)。それがソドムの罪/悪です。
ロトが自分の娘たちを住民に差し出そうとする行為は、ソドムの男性たちが同性愛を志向していたわけではないことの証拠です(8節)。実際、彼らが日常的に同性愛をしていたという記述はありません。同性愛に対する嫌悪と偏見が読み手にあるので、聖書の読み方が変わってしまうのです。教会は、断罪や分断ではなく、尊重や連帯を目指す解釈を提示すべきです。 JK