10/2今週の一言

10月2日の祈り会で創世記21章1-8節を学びました。

「子どもは誰のものなのか」という問いかけが、イサクの誕生物語に際して必要な視点です。例によって、ヤハウィストと呼ばれる思想集団(Jと略す)は、両義的・曖昧な書き方をして、読者に対して「自分の頭で考えるように」と促しています。また現代的な視点として、子どもを産まない/産めない女性に対する差別を助長するような聖書の読み方も斥けなくてはいけません。

家父長制の強い社会において、子どもは家長である父親に所属する所有物です。3-5節にある父親アブラハムによる命名や生後八日目の割礼執行は、家父長制の強い社会を是認する者たちの筆によります。命名や儀式の執行は支配の象徴です。学問上、この部分は「祭司集団による編集/加筆/書き込み部分」(Pと略す)とみなされています。JとPは紀元前6世紀のバビロンにおけるユダヤ人社会のライバルです。

Jはこの家父長制肯定の思想に異議を唱えます。族長である母親サラの発言「すべての聴衆は、わたしのために笑う」(6節私訳)は、次のようにも訳しえます。「すべての聴衆よ、イサクはわたしのもの」(水野隆一訳参照)。イサクという人名が「彼は笑う」という意味なので、また「のために」という前置詞が「のもの」という意味をも持つので、文法的に可能な訳です。

こうして現在の本文は、イサクがアブラハムのものであるか、それともサラのものであるかという問いの前に読者を立たせます。PとJの論争はそのような機能を持ちます。そしてこの論点をJは、母親エバによる出産と命名(カイン、アベル、セト)によって4章で取り扱っていました。最初の息子の出産に際し、エバは「自分がいのちを生んだ」という意味合いで「カイン」と名づけます。しかし、そのカインが「アベル(ため息の意)」のいのちを奪います。その後、三番目の息子への命名は「神がいのちを授けた」という意味合いで「セト」と名づけます。この4章の光に照らして21章は読まれるべきです。

いのちは創造主である神のものです。根源的な意味で子どものいのちは、家のものでも、父親のものでも、母親のものでもありません。個人として子どものいのちは尊重されるべきです。また子を生んでいようがいまいが、その女性のいのちも個人として尊重されるべきです。JK