10/8「父母の会」礼拝説教

わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。(詩編139編4節)

今日の聖書は10月の暗唱聖句です。

今月の『園だより』において、「全知全能の神は人間にとっては不気味である。神に監視されるのはまっぴらと思える程に成熟すべき」というようなことを書きました。今日は、このことをもう少し掘り下げます。

わたしたちが語る前から、何を語るのかを知っている神。この神賛美の言葉で言いたいことは、神は良心の主であるということです。詩編とは古代イスラエルの賛美歌集だと思ってください。

心というものは本来自由なものです。憲法19条にも書かれています。「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」。何を考えても良いということです。そして他人の心を支配しようとしてはいけないということです。特に国家権力は個人の心を左右させてはいけないのです。憲法というものは国家権力を縛るための道具ですから、この条文をただの対等の友人相互のことにあてはめてはいけません。「国家/それに類する大きな力を持っている者たちが、個人の内心の自由を侵してはならない」と読むべきです。国家が教育に介入してはいけない所以です。また政教分離原則が厳しく規定されている所以です。

信仰を持つということは、内心の主人を置くということです。神にだけは心を知られても構わないと考えることです。信仰を持たないということは、内心の主人を自分自身にしておくということです。良心の主を神とするか、それとも自分自身とするか、その違いです。いずれにしろ、すべての人は何を考えても良いのです。日本の刑法は憲法19条を基本に考えて、内心でどんな危険なことを考えても有罪とはしません。それゆえに「共謀罪」はきわめて危険な考え方です。めくばせ一つで有罪となるからです。

この心の自由を、当然のことながら子どもも持っています。何を考えても何を信じても良いのです。だから子どもの言葉に、不意打ちをくらうことがわたしたちにあるわけです。彼/彼女の心を支配していて、すべての発言の前に何を言うか知っているなどということはありえません。わが子に心の自由があることをどれだけ認めているか、言い換えればどれだけ一人前と見ているかが問われています。

嬉しい不意打ちならば笑っておしまいです。足でリズムをとっていた時だったか貧乏ゆすりをしている時だったかに、娘に「あんよが歌ってる」と言われて、うちの子は天才かと思ったこともありました。この種の言葉群はノートに記録しておくべきでした。

しかし逆にひどい言葉の不意打ちもありえます。「とうとちゃんはバカだから嫌い」と娘に言われた時には、絶句しました。それ以外にも子どもは卑劣なことを言ったり、誹謗中傷の類を言ったり、人権侵害に類する言動をしたりします。未熟だから社会のルールを知らないのです。「だめなものはだめ」と言う瞬発力も保護者には要求されます。そこで落ち込んだり、立腹したり、逃げたりする暇はないのです。これもお互いに心の自由があればこその豊かな出来事です。緊張感を持ちつつ楽しんでいきましょう。