11月27日の祈り会では、創世記27章41-45節を学びました。
弟ヤコブに「長子の権利」と「父親からの祝福」を掠め取られたエサウはヤコブを憎悪し、報復を決意します。今回は、ヘブライ語表現に注目しながら、「怒り」「憎しみ」「報復」の現代的意味について考えたいと思います。
「怒りが治まる」(44節)、「憤りも治まり」(45節)と新共同訳は訳しています。前者の「怒り」の含意は「熱」であり、頭に血が上っている様、カーっとなって顔を赤らめている様を表しています。後者の「憤り」の含意は「鼻」です。鼻が赤くなるほどに興奮し、鼻息を荒げている様子を表しています。怒りというものは、冷静さを失わせるものであり、外に表れるものです。それゆえにリベカはエサウの殺意を知ります(41-42節)。
「憎む」(41節)は「相手を敵として扱う」という意味を持ちます。イエスは「敵でない者はあなたたちの味方だ」と語り、さらに「あなたの敵を愛しなさい」とも語りました。どちらの言葉も、多様性を認め合う世界の大切さを教えています。人権の侵害をしかけてこない者たちは味方であり、仮にそれをする者たちにも人権は保障されるべきです。憎しみは、互いに距離感を保つことで共存するということと反対の方向性を、持っています。
「恨みを晴らそうとしています」(42節)の直訳は、「自分自身を慰めつつある」です。詐欺の被害者エサウは加害者ヤコブを殺すことによって、自分の感情を慰撫しようとします。そして、殺意を抱くこと・殺害の計画を温めることそれ自体が、自分を慰めつつある現在進行の行為なのです。被害者感情と加害者の生命という「非対称の天秤」が用意されていることに問題があります。報復の連鎖の起こる所以です。また死刑制度の課題を浮かび上がらせてもいます。
カインが弟アベルを殺害した時になかった知恵が、リベカによって示されます。ヤコブを実家に逃がして、地理的距離と時間的距離を作出するという知恵です。それが「怒り・憤りを治める」とリベカは考えました。「治める」は「悔い改める」という意味の動詞です。
人間の社会において、各人はあらゆる暴力と威嚇という暴力すら放棄することが必要です。これがわたし流の憲法9条の拡大解釈です。品位を保ち理性的であり、互いに距離を保ち共存的でありたいと願います。 JK